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ニューギニア作戦

只管ひたすらガダルカナル補給に集中した増援部隊は駆逐隊の一部をニューギニア方面の補給に当てる事になり、海風と江風はRR(ラバウル)方面防備部隊の指揮下に編入され、11月17日ラバウルに入港した。
ここは第8艦隊の根拠地で南緯4度、ニューブリテン島の東北端に位置する天然の良港で、ニューギニア戦線の重要な補給基地にもなっていた。
即日、陸軍部隊の物資を搭載して翌18日黎明に出撃し、江風と共にニューギニア島ブナの沖合に仮泊したのは19時半頃だった。
ここブナは首都ポートモレスビーとはオーエンスタンレー山系をまたぐ北岸の地点で、陸軍の南海支隊8,000名と海軍陸戦隊3,500名の外、高砂義勇隊と朝鮮義勇隊の軍属も上陸していた。
珊瑚礁の砂浜には10,000トン級の赤錆びた輸送船(ハヤトザン丸と覚えている)が座礁したままになっており、船内には軍馬の死骸が沢山残されているとのことだった。
この船陰が格好の荷揚げ場になっているらしく、投錨すると潜(ひそ)んでいたボロボロの大発だいはつ(小型揚陸舟艇)が2隻出て来て海風と江風に夫々横付けしてきた。

大発は隻に10屯位は搭載出来るらしいが、作業は迅速、且つ確実を要求された。
物資を搭載すると私は連絡信号員を命じられ、指揮官の中村航海士に従って、2名の作業員(江風からも2名)と共に大発に乗り移った。
大発が近付くと砂浜には大勢の陸軍さんたちが奇声を上げながら待ち構えていた。
着岸して荷下ろしが始まると先ず第1報、『ワレ接岸ニ成功、揚陸ヲ開始ス』。
携帯信号灯で発光信号を送ると、「・―・」海風の方向信号灯(限られた方向だけにしか交信できない信号灯)から了解信号が届いた。
ガヤガヤ騒ぎながら長い列をつくった陸軍さんたちは、エイサ、ホイサ、掛け声と共に物資は五十メートル程も先の椰子林の中に積み上げられていく、人海戦術の手送り作業で大発はたちまち空っぽになってしまった。
2回目の引取りに行くため大発を砂浜から押し出している時、ふと、爆音・・・と誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
遥か彼方の上空を仰ぎ見ると航空灯を点滅する機影がうっすら見えている。
ボーイングだ・・・爆音の近付くにつれてはっきりボーイングと判る8機のB17の機影が確認されてきた。
江風は何処にいるのか見えなかったが、海風はとっくに気付いたらしく、もう錨を揚げて動き始めていた。
B17は4,000米位上空をぐんぐん近付いてくる、海風は戦闘速力に入ったらしく船尾の白波が盛り上がって見えだした。
艦は見る間(ま)に沖合に遠ざかり、閃光と共に砲声が轟き、25粍機銃の曳航弾が赤い筋を引いて飛び始めた。
江風も何処かで砲撃しているらしく、B17の周りには無数の弾幕が広がっているが、流石に「空の要塞」、弾幕をくぐるように悠々ゆうゆうと上空を旋回している。
やがて水平爆撃の体勢に入るらしくだんだん高度を下げてきた。
海風は必死で対空戦闘を続けているようだが、遠くから見ているだけでどうする事もできない。
そのうち先頭の1機が餅を撒くように数十個の爆弾を投下すると、続く7機も次々と投下を始めた。
数分ほどの間に海風の回りには数百もの水柱の飛沫しぶきが上がり、まさに「爆弾ばくだん雨霰あめあられ」という表現がぴったりである。
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」とかで、至近弾の水飛沫の中に1本の火柱が見えた。
「海風がやられた」7倍稜鏡双眼望遠鏡を首に掛けていた航海士が叫んだ。
まるで頭から冷水をかけられたように背筋が冷たくなってくるのがよく判る。
5〜6,000メートル位は離れているだろうか、爆撃が終ると砲声は絶え、曳光弾の光も消えて、海風の船体がうっすらと見えてきた。
はっきり判らないが艦の中央付近で火災を起こしているらしい。
最後の爆撃でやられたらしく、兵士たちは懸命の消火を続けているであろうに、想像しながら、ただ苛苛するだけである。
爆撃を終えたB17は高度を上げて5,000メートル位上空を悠々と旋回しているが、これは偽装攻撃を繰り返しているだけで、もう爆撃の心配はなさそうだ。
畜生・・・忌々いまいましさと興奮で携帯信号灯を持った手が震えるのが判る。
「―・・・ ・」海風の艦名符字(B・E)を連続で呼んで見るが応信してくれない。
遠すぎて届かないのか? いやそんな事はない望遠鏡を覗けば十分届く距離だ、艦橋をやられて信号兵がみんな戦死したのかも知れない。
ヤマは大丈夫だろうか、信号員長や田畑兵長は、艦長、航海長はどうだろう。
いろいろの事態を空想しながら繰り返し応信を求めているうち、海風はだんだん遠ざかって行き、やがて視界から消えて終った。
「潮に流されているんだなぁ、自力ならもっと早いよ」
独り言のように呟く航海士の言葉にも元気がない。
陸軍さんたちは始めのうちは心配そうに見ていたが、そんな事より折角届いた食糧を又やられては堪らないとばかり、陸揚げ物資の移動に大童おおわらわで、何時の間にか何処か遠くの方へ運んで行って終っていた。
置き去りにされた私達6人(中村航海士以外は名前も等級も記憶に無い)は夜明けを待って現地の陸戦隊のお世話になることになった。
陸戦隊側でも招かざる客に戸惑ったようだが、今後も糧秣を届けてくれる命の綱とあれば無下むげに断る事もできず、やむなく受け入れてくれたのであろう。
陸戦隊と言っても兵団はバラバラで、椰子の葉でカモフラージュしたテントの陣営が所々にあって一か所に10〜15人が屯していた。
航海士は司令部の方でお世話になったらしいが、私達5人は椰子の葉で葺いた2坪程の小屋を与えられ、応召兵らしい上曹(40才位の親切な老兵曹)の指示に従う事になった。
この老兵曹の説明によると、この部隊は3ヶ月程前に上陸したが、上陸時に爆撃を受けたため武器弾薬、糧秣共に厳しい状態で、小銃は5人に3丁しかなく、各自には手榴弾が与えられているが、いずれも最後の白兵戦に使用するように指示されているという。
糧秣に至っては既に底を突いた状態で、主食は1人1日に1合(掬び2個程度)、副食は乾燥カボチャの味噌汁が2日に1回で、あとは梅干し半分か少量の食塩と言う節食ぶりである。
1日1日を爪に火をともす思いで食い延ばしを図っているが、それでも手持ちは後10日分位しかないと言う事だった。
腹ペコで説明がおわったら食事にありつけると思って楽しみにしていたが、老兵曹の話を聞いているうちに食欲が無くなってしまった。
烹炊所は敵機の攻撃を避けるために入り組んだ山の麓にバラック建てで造られてあった。
それでも楽しみにして給食を受け取りに行くと缶詰の空き缶に入れた宛行扶持あてがいぶちの麦飯と、お湯の入った水筒が用意されてあった。
若い主計兵曹が出て来て食糧事情を説明しながら、「非戦闘員(仮隊員)は3分ノ1で我慢して貰いたい」と言って渡してくれた。
持ち帰って5等分すると卵大の掬びが1個と梅干しが半分づつで箸も食器も無く、掬びは2口か3口で食べてしまい、後は折り曲げた草の葉っぱにお湯を注いで飲むだけで食事はおわりである。
後片付けは極めて楽だったが、とても食事をした気分にはなれなかった。
老兵曹から何時敵が攻撃して来るか判らないので、体力を保つため昼でも適当に休んでよいと言われたが、これでは寝ていても体力は保てない。
「大変な所に置き去りにされたものだ」とヒソヒソ話をしていると、突然カンカンと甲高い音(木に吊るした丸鋸を叩いていた)が響き渡り、遠くの方で「空襲」と叫ぶ声が聞こえてきた。
何処からか老兵曹がとんで来て空襲だからみんな退避壕に入れ、と言って自分から先に飛び込んだ。
退避壕と言っても爆撃でえぐられた窪みを利用して、そこら中に直径1メートル位の縦穴が掘ってあるだけだが、この頃では爆撃はなく、殆どが戦闘機の銃撃だけとの事だからこの中でうずくまっていれば充分役立つわけである。
この日もロッキードP38、3機が来襲して、椰子の木すれすれの超低空で四方八方に機銃を撃ち巻くって行ったが、その間僅かに5〜6分だった。
弾着の土煙が地響きを立てて通り抜けて行くと、回りの蛸壺のような退避壕からみんながのこのこ出てきた。
「あんな奴等に一々関わっていたら弾が幾らあっても足りないからなぁ」老兵曹は苦笑いをしながら自分の陣営に帰って行った。
1日に2回来襲する事は殆ど無いと聞いたので空襲が終った後、付近を歩き回って見たが、ここ「バサブア」と言う地区は平地が少なく、陣営から1キロ程も離れると椰子林と言うよりも斜面のジャングル地帯が多く、あちこちに野生と思われるレモンが黄色く実っていた。
良い物を見つけたと思って味を確かめてみると口が歪むほど酸っぱい。
この他にも野生のパイナップルや西瓜等もいっぱい生えており、これらは現地人が捨てた食べ残しの種から自生したものと思われるが、西瓜などは卵大になると?ぎ取られるらしくどれも食するに足りるものはなかった。
腹が減っては戦ができないと言うので、定期便とのお付き合いがおわると一日中風通しのいい木陰で寝転び、夜になると、一所に集まって老兵曹の思い出話や世間話を聞く事が何よりの楽しみになっていた。
この老兵曹はなかなかの話上手で、言葉遣いの端々からもかなりのインテリと感じとったが、彼は自分の履歴や境遇については一切語ろうとしなかった。
1週間位過ぎた日、「オイ今晩駆逐艦が迎えに来てくれるぞ」と言いながら航海士が走って来た。
もう帰れないだろうと半分は諦めていただけに5人は両手もろてを上げて万歳を叫んだ。
こんな場合、兵員だけなら態々迎えに来てくれる事は殆ど考えられないが、8根司令部の方で中村中尉から逼迫ひっぱくした現地の状況報告をつぶさに受けるためらしかった。
早速老兵曹にこの事を報告すると、「おめでとう、良かった良かった、お前達は未だ若い、1日も長く生き延びて戦い抜いてくれ、武運を祈るよ」と言って一人一人に握手してくれた。
ご家族やご親戚に郵便物があれば取り次ぎたいと申し出たが、「家族にも友人にも伝えたい事は何もない」と言って首を振る。
おそらく、あんな惨めな状態は家族や友人にも知らせたく無かったのであろう。
迎えの駆逐艦(満潮と記憶している)は陸揚げ物件は何も搭載しておらず、漂泊のまま6人を収容すると直ちに出港した。
僅か1週間余りの出会いだったが、内火艇が砂浜を離れた後も座礁船の影で何時までも手を振っていた老兵曹の姿が印象的だった。
ラバウルに入港したのは11月26日だったと覚えているが、海風は憐れな姿で八海丸(特設工作艦)の左舷に横付けしていた。
詳細な戦闘状況は知る由もないが激戦を物語る惨状は目を覆うものがあった。
2本の煙突は吹っ飛ばされ、前後部の居住区は全部水浸しで、被服や箱等の板切れが重油にまみれてごみ屑と一緒に浮いていた。
信号員長の話では、負傷者25名・行方不明者5名・戦死者5名を出したけれど、全員が必死の消火作業で誘爆を防いだ甲斐があって、これでも船体被害の割には犠牲者が少なかったと言う事だった。
ヤマを始め心配していた顔見知りの先輩たちや昵懇じっこんな同僚たちも皆『心配していたが良く帰ってきてくれた』と言って握手で迎えてくれた。
落ち着く間もなく、中古の防暑服とズック靴を貰って早速復旧作業に取り掛かったが1週間もろくすっぽ食っていないので体に力が入らない。

  • ボーイング B17(B29の前身)・・・この時代空の要塞と呼ばれた米空軍自慢の重爆撃機で、4トン(100キロ爆弾40数個)以上の爆弾を搭載していた。
  • 手箱・・・下士官兵の日用品を収容する為に備品として貸与されている木箱。



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