南太平洋海戦
10月24日、陸軍部隊の飛行場再攻撃に策応する前進部隊本隊の作戦行動に併せて24駆逐隊は又々ルンガ湾に突入することになった。
時を同じくして敵の大艦隊もまたこの周辺に接近しつつあると言う情報を察知した。
偵察機を発進させた各艦からの情報は
満を持していた第2艦隊旗艦、愛宕(司令長官近藤信竹中将)麾下の前進部隊はこれを迎え撃つ戦闘態勢で進撃に移った。後に言う南太平洋海戦である。
※ 重巡『愛宕』 (第4戦隊旗艦)の写真へ
折りよく24駆逐隊が前進部隊本隊と合流した26日夜半に、敵大艦隊と遭遇した。
海戦には絶対自信を持っていた水雷戦隊だったが、敵味方探照灯の交錯する夜戦の
24駆逐隊は直ちに反転して2水戦の旗艦五十鈴と共にこの追撃に向かった。
しかし遂にこの敵を捕捉することができないまま、断念することになり、結局は虻蜂取らずで海戦の顛末をも見届ける事が出来なかった。
10月10日挺身攻撃隊として出撃以来、着の身着のままで数々の作戦に携って来た24駆逐隊は30日、補給船団を護衛して一旦トラック基地に帰投して戦備を整える事となり、31日、北水道の脅威投射を続けながら船団を誘導してトラックに入港した。
泊地では聯合艦隊旗艦の大和を始め、在泊の各艦船が、一斉に『第24駆逐隊ノ戦果ヲ祝ス』の旗旒信号で迎えてくれたが、飛行場を再び奪回された事を思うと嬉しさも半分だった。
泊地に投錨すると、早速出撃の際陸揚げした物件を積み込んだが、衣嚢の中に遺書や遺髪を忍ばせていた兵士もいて、自分の遺書に複雑な表情で見入っていた。
作業が終ると順次行水用の真水が配給され、20日分の垢を流し落としてさっぱりした気分になった。
陸揚げしてあった防暑服に着替えると、夕刻にはビールや菓子等の戦給品が配られ、懐かしい故郷の便りも届いており、艦内はどの居住区でも久し振りに賑やかな笑い声が溢れていた。
11月1日、定期の任官、進級が発令され、筆者もはれて二等水兵に進級した。
階級章は同時に一等水兵に昇進した田畑先輩のお古を頂戴して軍服の右袖に縫い付けた。
田畑先輩もまた麻生先輩のお古を譲り受けて一等水兵の階級章を縫い着けていたし、艦内の同僚先輩たちも皆この方法を取っていた。
これは、この日から勅令611号により階級章が新しく変更になったが未だ新階級賞が届いていないためと、もう一つは明治以来伝統の「絡み錨」型階級章への愛着からでもあった。
兵の等級呼称も陸軍と同様に二等水兵から水兵長の4段階となり、四等水兵が無くなり、三等水兵は二等水兵、二等水兵は上等水兵、一等水兵は水兵長と呼ばれるようになった。
下士官も三等兵曹が姿を消して、二等兵曹に、二等兵曹が一等兵曹、一等兵曹は上等兵曹と呼ばれることになった。
筆者も内地に居れば、さしづめ上陸の際4分ノ1の外泊が許可される事になるわけだが、戦地にいてはこれも絵に書いた餅でしかなかった。
只、後輩が1人(加冶屋 貢二水)乗艦して来たので、新参兵の役割が幾分身軽になる事は嬉しいことだった。
2日間の戦備作業中に交替で保健上陸が許可されたが、喜ぶのは慰安所遊びを楽しみにしている古参兵たちで、我々新参兵には揺れることの無い大地を踏みしめるだけの楽しみしか無かった。
11月3日、明治節の祝日にも関わらず緊急出撃命令を受け、7戦隊(最上・熊野)と共に又もショートランドに進出することになった。
6日、ショートランドに入泊すると、24駆逐隊は再び増援部隊に復帰を命じられ、即日増援の陸兵を乗せてガ島に出撃した。
この頃では執拗に来襲する敵機と駆け引きを交わしながらの航行で、泊地に辿り着いたのは7日夜だった。
それでもこの夜はどうにか揚陸に成功したものの、この後は出撃しても毎日反転の繰り返しで、15日の夜には船団
その後も敵機の襲撃は日増しに
これに反して、敵は次々に飛行場を拡張して小型機の外に、当時「空の要塞」と呼ばれたボーイングB17を大量に配備し始めた。
引くに引かれなくなった聯合艦隊は、最後の切り札として、第2次挺身攻撃隊による飛行場砲撃を
※ 巡洋戦艦『比叡』の写真へ
斯くして、ソロモン海域の制空権は完全に敵側に制圧される事になり、太平洋戦争の関ヶ原と呼ばれたガダルカナル争奪戦も、どうやら西軍に似た色合いが濃くなっていた。
24駆逐隊はこの後も数回に亘ってルンガ泊地に侵入を試みたが全て失敗に終わり、嘗って、夜襲攻撃の花形と
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