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内南洋補給

海風は武蔵を木更津沖まで護衛して、10時、横須賀に入港した。
この日乗艦以来仕えて来た林航海長が転勤になり、交替に森藤久利中尉が着任した。
森藤航海長は神戸高等商船学校出身の予備士官だったが兵学校出身者を凌ぐ剛勇で、部下を愛し、人情に厚く、人生談義を好む若干25才の青年将校だった。
海風は横須賀で、燃料を補給して糧秣を積み込むと、24日、9時45分、雲鷹うんよう沖鷹ちうようを護衛して出港し、29日、9時、トラックに入港した。
既にこの頃にはトラック環礁の周辺にも敵潜水艦の出没が著しく、南北水道に侵入の際は爆雷の脅威投射を行いながら通過する事が常になっていた。
こんな時に一番必要な駆逐艦は既に大半を失っており、近隣島嶼への輸送は礁外2〜30マイルまで護衛して、後は単独輸送に委ねたり、木造の特設駆潜艇が護衛に当たる事が多くなっていた。
海風は31日、玄洋丸を礁外150マイル付近まで護衛して帰投した後、6月5日、5時、出港して翌6日、6時30分、ポナペ(トラックの西450海里)に入港し、ここで急遽陸戦隊と物件を搭載すると、正午この地を出港してナウル(現ナウル共和国)に急行した。
任務を終えて6月10日、15時、トラックに帰投した後は南北水道の対潜掃討を兼ねて近隣島嶼に往来航する船舶を礁内外へ誘導護衛する任務に当たっていた。
28日、3時、突如、雲鷹うんよう沖鷹ちうよう(設航空母艦)護衛の任務を受け、横須賀に向けて出港し、翌月2日、16時30、横須賀に入港した。
入港すると早速半舷上陸が許可され、横須賀海仁会集会所の大浴場で何日間かの垢を洗い落として、練習生時代の懐かしい天丼に舌鼓を打った。
街を歩き回っても練習生の頃とは様変わりで、土産物店に行っても干しバナナか塩昆布位で菓子の類はどの店にも売っていなかった。
4日、9時、横須賀を出港すると、対潜掃蕩を兼ねて洋上訓練を繰り返しながらの航行で、5日、17時、佐伯に入港した。
ここ佐伯は筆者の生まれ故郷に程近い所で身近な親戚も沢山住んでいた。
内海からの船団を待ち合わせていたらしく、これと言う作業も無いまま丸々2日近く停泊していたのだから、せめて入湯上陸だけでもと期待していたが、気ままに上陸していたのは士官だけで、下士官兵には保健上陸すら許されなかった。
7日、海風は待ち合わせの船団(饒津丸・青葉山丸・東亜丸)が入港すると、これを護衛して、13時30分、心を残して懐かしい山や丘を眺めながら豊後水道を南下して行った。
この船団、オンボロの中ではまあまあの速力で、7月13日、11時、には、パラオ(委任統治時代の南洋庁所在地)に入港した。
ここでは2時間位の保健上陸を許されたが、これと言って買う物も無く、ただ歩き回るだけだったがパラオ特有のコバルト色に輝く珊瑚礁が印象的だった。
翌14日、6時、パラオを出港すると、洋上で風早かざはや(特務艦)と合流し、これを護衛して17日、18時、トラックに入港した。
泊地には隼鷹を始め四隻の空母が投錨しており、久し振りに見る艦隊の基地らしい光景だった。
「空母の護衛は海風の特許だなぁ」と言っていた航海長の予感どおり7月19日、4時7分、出港して、今度は隼鷹・龍鷹(正規空母)雲鷹・沖鷹ちうようを護衛して再び内地に回航することになった。
23日、12時、豊後水道直前の日向灘で雲鷹・沖鷹を分離し、隼鷹と龍鷹を護衛して横須賀に向った。
2艦を観音崎付近まで護衛し、24日、13時55分、急遽反転して翌25日、7時、佐世保に入港した。

  • 特設空母・・・艦載機の発着できない航空機輸送専門の空母。


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