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江風沈没の悲報

思いがけない母港入港に兵員たちは戸惑いながらも大喜び、「どうせ2〜3日の停泊だろう」と思っていたことが嬉しい当て外れになった。
27日には涼風も入港し、海風は31日に入渠する事が決まり、思いがけなく半舷帰宅休暇も許可されることになった。
ヤマと共に後半組に当たり、8月4日、2人ははずむ気持ちで夫々夜行列車に乗り込んだものの、行き当たりばったりで乗った筆者の列車は無常にも久大線各駅停車の日田駅止まりだった。
仕方が無いので駅のベンチで仮眠をとって翌日の始発列車に乗り込んだが、わが家に辿り着いた時にはその日の夕方になっていた。
故郷では夏祭りの真っ最中で、集まった親戚や友人たちに持て囃されてわが家でくつろぐ暇も無く、せめて最後の1日だけはと思っていたら、この日も校長にせがまれて母校の講堂で手柄話しを一くさりつことになった。
例によって緘口令に縛られていたので負け戦抜きの武勇談が受けたらしく、先生や後輩たちの拍手の中で大盛会で終ることが出来た。
4泊5日の休暇もわが家に寝たのは2晩だけで、お袋さん心尽くしの海苔巻き寿司と土産の干し椎茸を担いでその日の内にのろのろ列車の客となった。
8月8日、帰艦した時には艦はもう出渠して岸壁に横付けしていたが、ここには悲しいニュースが待ち受けていた。
舷門に架けた足場板を渡ると、当番衛兵が「オイ江風がやられたぞ」と言う。
えっ、何時・・・と言ったきりで後は聞こうともせず、極めて冷静を装った振りをして居住区に降りて見ると、そこには一足先に帰艦していたヤマが土産のイリコ(煮干し)をテーブルに投げ出したまま呆然としていた。
暗号科員の話では、詳しい情報は未だ入電していないが、恐らく全員戦死だろうと言う。
憶えば開戦以来、数々の作戦を共に戦い抜いてきて、つい2月程前、旗艦神通に従ってルオットに出撃する勇姿を見送ったのが最後であった。
両艦が合流する度にお互いの健在を確かめあい、武運を祈りあっていた同期の4人組も、ここでまた上橋茂君(19歳)が2番手として散って行ったのである。

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