餓島ソロモン
2月27日、横須賀に回航すると、もうここにはトラック行きの輸送船団が待ち構えていた。
海風はここで、燃料と生鮮食料品の積み込みを徹夜で済ませ、翌28日、盤谷 丸と西貢 丸を護衛して出港した。もうこの頃になると輸送船も骨董品に近いオンボロ船が多かった。
この船団もこの部類に属するもので速力が遅く、トラックに入港したのは三月八日だった。
泊地には大和・武蔵を始め数10隻の艦艇と十数隻の輸送船が停泊していたが、輸送船はどれも中小の船舶ばかりで、昨年の8月17日、前進部隊が大挙入港した時の華やかさは見る影も無かった。
物量を誇る敵に気力で挑んだガ島作戦は失敗に終わり、かつて猪突猛進 の聯合艦隊も一変して受け身の体勢にかわっていた。
こんな時にも大和・武蔵は「聯合艦隊健在」の象徴的存在で、その偉容は出入港する艦艇にどれ程の自信と安らぎを与えたか計り知れない。
歴戦駆逐艦の大半を犠牲にしてまで兵力を送り込んだガ島を始めソロモン海域の島々も、補給を絶たれた今はことごとく飢餓の島と化し、前線の兵士たちは只管 糧秣の補給を待ち望んでいた。
ここに停泊している船団の殆どがこれらの島々に補給する物資を搭載しているのであろうが、最早この方面への直接輸送は到底困難な戦況になっていた。
昨年10月15日、ヘンダーソン飛行場を完全手中に収めた敵さんはガダルカナル島に厖大な物資を揚陸すると共に、艦艇には夜間射撃用の高性能レーダーを装備し、航路沿いの島々には20トンそこそこの小型高速魚雷艇を大量に配備し始めていた。
これらは何れも夜間攻撃に強烈な威力を持つもので、この海域で補給に当たる艦艇にはこの上も無い大きな脅威になっていた。
夜間輸送中の艦艇から、何処からとも無く飛んで来た砲弾が命中したと言う報告や、島影から小型魚雷艇に襲撃されたと言う情報が相次いでいた。
度重なる犠牲に苦慮した増援部隊司令部は、大発(揚陸用小型舟艇)による輸送を企み、夜陰に乗じて、数十隻の大発を駆使して島伝いに集団輸送を試みたが、殆どが途中で撃沈され、目的を果たしたものは皆無に等しいと聞いている。
海風はトラック入港以来周辺の島嶼を毎日独楽鼠 のように駆け回り、南北水道の水路警戒の傍ら国洋丸・健洋丸を護衛して、メレヨン・ナモチック島等への補給を兼ねて警戒に当たっていたが、四月21日までに、メレヨン島の接収を終わらせ、25日に低速船団を護衛してトラックを出港した。
28日、このオンボロ船団をどうにかラバウルに送り届けると、ここで基地物件を移載して29日午後出港し、翌30日、12時、にはもうブインに入泊していると言うまさに忍者のような早業の行動だった。
かって連合艦隊の花形と謳われた駆逐隊も、今ではその奴隷のような重労働を強いられていたのである。
ここでも基地物件の陸揚げを済ますと、間を置かずコロンバンガラ行きの物資を搭載して直ちに出港した。
この頃、誰からともなく「五十六 さんが戦死したらしい」と言う噂が艦内に流れ始めた。
恐らくブイン基地に上陸した公用使が聞きかじって来た情報であろうが、この噂は真実で、我々信号科と電信科では長官が戦死されたその時点で知っていたが極秘扱いにしていた。
噂が広がるにつれ、先任将校から「虚偽の噂が流れているが、長官は健在で武蔵に座乗しておられる、流言飛語 に惑わされないように」と言う艦内伝達があった。
海風はその日、23時過ぎにコロンバンガラ島(ガ島とブインの中間)に到着したが、ここでも2時間足らずの間に物資を揚陸し、同島の帰還後退者を収容して、翌5月1日18時過ぎブインに帰投した。
この帰還後退者は大方が栄養失調の兵士たちで実に惨めな姿だった。
ボロボロの軍服に底の抜けた靴、髪や髭 は伸び放題で目は窪み、手足は棒のようにやせ細り、殆どが骨と皮の状態で体重も40キロそこそこのように思われた。
主計科では、航海中にこれらの兵士たちに給食するために、上甲板に大きな味噌汁鍋を置いて一列に並ばせたが、兵士たちは食器に味噌汁をよそうのを待ち切れず、食器をひったくって逃げる者もいれば、あの熱い味噌汁を一気に飲み干して2杯目を貰うため急いで列の後につく者もいる。
中にはその為に内臓を焦がして苦しみながらその場に倒れる者もいた。
重病者は暑い甲板に寝かされた儘で、側 を通ると呻 き声の中から「水・・・水・・・」と微かな声で呼びつづけている者もいれば既に息を引き取っている者もいた。
実にこの世の出来事とは思えない地獄絵図を現実に見る光景だった。
対空・対潜の戦闘を続けながら昼夜兼行の過酷な任務に携わっている乗組員の中でさえも『陸軍で無くてよかった』と言う囁 きが聞こえていた。
海風はこれらの帰還兵士を1時間足らずでブイン基地に降ろすと、7時、何の積荷も無く急遽ブカ(ブーゲンビル島北方の小島)に向けて出港した。
15時、過ぎブカに到着したが、ここでは静かな湖のような入江に投錨し、鬱蒼 と茂る原生林を眺めながらろくに作業もないまま3日近く停泊した。
この間、現地部隊との接触も無く何の為に来たのか我々下っ端には判らなかったが、おそらく上層部では何等かの作戦計画が有ったのであろう。
何れにしても兵員たちには束の間の骨休みになった事は間違いない。
この日、定期の進級・任官が発表され、信号科では麻生兵長が晴れの二等兵曹に任官されて、水雷科の西兵長と共に黒い線の入った真新しい艦内帽を照れ臭そうに被っていた。
本来なら庇 の着いた帽子に「桜に錨」の金ボタンと言う粋な詰襟服に変るわけだが、戦地では軍服を着ることもないので帽子でしか見分けがつかなかった。
それでも先輩や後輩からの「おめでとう」の祝福を嬉しそうに受け応えしていた。
5月4日、15時30分、ブカを出港して16時、ブインに到着すると漂泊のまま30分余りで人員物件を搭載してコロンバンガラに向かった。
23時、同地に到着したがこの時期、この海域は特に魚雷艇の襲撃が厳しく、積み降ろし作業はすべて総動員で行われていた。
揚陸を終えて翌五日、17時、ブインに帰投したが今度も積み込み物件もなくそのまま出港して再びブカに向かった。
17時40分、ブカに到着すると、全く前回と同じ場所で停泊時間も殆ど同じ、まさかこんな時期に休養でもあるまいに、この不可解な行動は最後まで判らなかった。
5月8日、3時50分、ブカを出港、12時30分、ブインに帰投すると間もなく、第15駆逐隊救援の緊急命令を受け、急遽、救援資材を積み込んで20時37分、出港した。
翌日、20時、ブラケット水道(コロンバンガラ付近の小島の海峡)に到着したが、既にこの付近には敵の小型魚雷艇が待ち構えていると言う情報が入っていた。
15駆逐隊は、かつて「ガ島挺身攻撃隊」として共に作戦に従事した第二水雷戦隊の一番隊で、早潮を除く陽炎・親潮・黒潮の3隻が間を置かず触雷により沈没したと言う事だった。
一人でも多く救助したいと思い、気持ちは焦るが辺りは真っ暗で救助作業は思うように捗らない。
一面に重油が浮いてきらきら光る海面を2〜3ノットで探し回るのだから危険な事もこの上ない。
何人救助したかは記憶に無いが、黎明時の敵機来襲を避けるため一時間程で救助作業を打ち切り、3時7分、捜索現場を離れた。
7時30分、ブインに到着すると、重油に塗 れて真っ黒になった救助者を降ろし、救難資材の陸揚げを済ますと、息つく暇も無く、19時10分、出港してラバウルに回航することになった。
5月10日、21時40分、ラバウルに入港すると、ここには、外南洋部隊から前進部隊へ復帰の命令が待っていた。
この日2時間位の半舷保健上陸が許可されたのでヤマと2人で市街地の方まで行って見たが街の様子は一変しており、八海丸で修理中に兄と一緒に上陸した時に立ち寄った土産物屋を探してみても、何処にあったのかも見当がつかないほどに変っていた。
おそらく米軍の空襲を恐れた現地人たちが早めに町を離れたのであろう、久し振りの上陸も草臥 れただけで何一つ印象に残るものは無かった。
帰艦すると間もなく、16時50分、に突如出港することになった。
目的地は発表され無かったが、羅針盤の方位と艦橋の雰囲気から「トラックらしい」と言う当直信号員の感がピタリ当たって、12日の昼頃にはトラックの島々が見え始めた。
振り返ってみても、トラックを出て未だ20日も経っていないのになんと懐かしく感ずる事か、南水道を通過するともう母港にでも帰ったような安らを覚える。
今日は何故か大和は見えないが、武蔵には何時ものように大将旗が翻っている。
何処かで誰かが、「五十六さんが死んだと言うのはやっぱりデマか」と呟いている声が聞こえる。
13時、何時もの錨地に投錨したが泊地に大和がいないと物足りないような気もするが、それでもやっぱりトラックは素晴らしい。
艦内は陽気に満ち溢れて兵員たちの顔も一段と晴れやか、一段落すると、各分隊ごとに特配のビールが配られ、嬉しい郵便物も届いた。
夜になると各居住区で古参兵たちが酌み交わしながら語らう笑い声に交じって「さぁらばラバウルよ:」の歌声も聞こえてきた。
警戒配備も4直に緩和されて艦橋はひっそり、信号員長の分まで引き受けて当直を続けていると、早耳の麻生兵曹が急 き込んで駆け上がってきた。
私の顔を見るなり「オイ、内地に帰ると言うのは本当か」と言う。
何の事を言っているのか判らなかったが、「そんな話は全く聞いていませんよ」と答えると、彼は首を傾 げながら降りて行った。
この噂、誰からとも無く期待をこめて流したデマらしいが、結果は「嘘から出た真実」となったのである。
その翌々日から2日間に亘って上陸が許可されたので、ヤマと二人で夏島を歩き回ったが銭湯があるわけでもなく、買い物をするような店も無いので、椰子の木陰に寝転んで過ごした。
帰艦してみると、17日に出港するそうだが一体何処に行くのだろう、とガヤガヤ騒いでいた。
ラバウルで、突然前進部隊に復帰したばかりなのに、何の作戦行動を指示されることも無く、保健上陸まで許可された挙句、追い立てられるように出港したかと思うと、又々2日間に亘って保健上陸?
何か腑に落ちない感じがしたがこの謎も出港後間もなく解ける事になった。
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2月27日、横須賀に回航すると、もうここにはトラック行きの輸送船団が待ち構えていた。
海風はここで、燃料と生鮮食料品の積み込みを徹夜で済ませ、翌28日、
この船団もこの部類に属するもので速力が遅く、トラックに入港したのは三月八日だった。
泊地には大和・武蔵を始め数10隻の艦艇と十数隻の輸送船が停泊していたが、輸送船はどれも中小の船舶ばかりで、昨年の8月17日、前進部隊が大挙入港した時の華やかさは見る影も無かった。
物量を誇る敵に気力で挑んだガ島作戦は失敗に終わり、かつて
こんな時にも大和・武蔵は「聯合艦隊健在」の象徴的存在で、その偉容は出入港する艦艇にどれ程の自信と安らぎを与えたか計り知れない。
歴戦駆逐艦の大半を犠牲にしてまで兵力を送り込んだガ島を始めソロモン海域の島々も、補給を絶たれた今はことごとく飢餓の島と化し、前線の兵士たちは
ここに停泊している船団の殆どがこれらの島々に補給する物資を搭載しているのであろうが、最早この方面への直接輸送は到底困難な戦況になっていた。
昨年10月15日、ヘンダーソン飛行場を完全手中に収めた敵さんはガダルカナル島に厖大な物資を揚陸すると共に、艦艇には夜間射撃用の高性能レーダーを装備し、航路沿いの島々には20トンそこそこの小型高速魚雷艇を大量に配備し始めていた。
これらは何れも夜間攻撃に強烈な威力を持つもので、この海域で補給に当たる艦艇にはこの上も無い大きな脅威になっていた。
夜間輸送中の艦艇から、何処からとも無く飛んで来た砲弾が命中したと言う報告や、島影から小型魚雷艇に襲撃されたと言う情報が相次いでいた。
度重なる犠牲に苦慮した増援部隊司令部は、大発(揚陸用小型舟艇)による輸送を企み、夜陰に乗じて、数十隻の大発を駆使して島伝いに集団輸送を試みたが、殆どが途中で撃沈され、目的を果たしたものは皆無に等しいと聞いている。
海風はトラック入港以来周辺の島嶼を毎日
28日、このオンボロ船団をどうにかラバウルに送り届けると、ここで基地物件を移載して29日午後出港し、翌30日、12時、にはもうブインに入泊していると言うまさに忍者のような早業の行動だった。
かって連合艦隊の花形と謳われた駆逐隊も、今ではその奴隷のような重労働を強いられていたのである。
ここでも基地物件の陸揚げを済ますと、間を置かずコロンバンガラ行きの物資を搭載して直ちに出港した。
この頃、誰からともなく「
恐らくブイン基地に上陸した公用使が聞きかじって来た情報であろうが、この噂は真実で、我々信号科と電信科では長官が戦死されたその時点で知っていたが極秘扱いにしていた。
噂が広がるにつれ、先任将校から「虚偽の噂が流れているが、長官は健在で武蔵に座乗しておられる、
海風はその日、23時過ぎにコロンバンガラ島(ガ島とブインの中間)に到着したが、ここでも2時間足らずの間に物資を揚陸し、同島の帰還後退者を収容して、翌5月1日18時過ぎブインに帰投した。
この帰還後退者は大方が栄養失調の兵士たちで実に惨めな姿だった。
ボロボロの軍服に底の抜けた靴、髪や
主計科では、航海中にこれらの兵士たちに給食するために、上甲板に大きな味噌汁鍋を置いて一列に並ばせたが、兵士たちは食器に味噌汁をよそうのを待ち切れず、食器をひったくって逃げる者もいれば、あの熱い味噌汁を一気に飲み干して2杯目を貰うため急いで列の後につく者もいる。
中にはその為に内臓を焦がして苦しみながらその場に倒れる者もいた。
重病者は暑い甲板に寝かされた儘で、
実にこの世の出来事とは思えない地獄絵図を現実に見る光景だった。
対空・対潜の戦闘を続けながら昼夜兼行の過酷な任務に携わっている乗組員の中でさえも『陸軍で無くてよかった』と言う
海風はこれらの帰還兵士を1時間足らずでブイン基地に降ろすと、7時、何の積荷も無く急遽ブカ(ブーゲンビル島北方の小島)に向けて出港した。
15時、過ぎブカに到着したが、ここでは静かな湖のような入江に投錨し、
この間、現地部隊との接触も無く何の為に来たのか我々下っ端には判らなかったが、おそらく上層部では何等かの作戦計画が有ったのであろう。
何れにしても兵員たちには束の間の骨休みになった事は間違いない。
この日、定期の進級・任官が発表され、信号科では麻生兵長が晴れの二等兵曹に任官されて、水雷科の西兵長と共に黒い線の入った真新しい艦内帽を照れ臭そうに被っていた。
本来なら
それでも先輩や後輩からの「おめでとう」の祝福を嬉しそうに受け応えしていた。
5月4日、15時30分、ブカを出港して16時、ブインに到着すると漂泊のまま30分余りで人員物件を搭載してコロンバンガラに向かった。
23時、同地に到着したがこの時期、この海域は特に魚雷艇の襲撃が厳しく、積み降ろし作業はすべて総動員で行われていた。
揚陸を終えて翌五日、17時、ブインに帰投したが今度も積み込み物件もなくそのまま出港して再びブカに向かった。
17時40分、ブカに到着すると、全く前回と同じ場所で停泊時間も殆ど同じ、まさかこんな時期に休養でもあるまいに、この不可解な行動は最後まで判らなかった。
5月8日、3時50分、ブカを出港、12時30分、ブインに帰投すると間もなく、第15駆逐隊救援の緊急命令を受け、急遽、救援資材を積み込んで20時37分、出港した。
翌日、20時、ブラケット水道(コロンバンガラ付近の小島の海峡)に到着したが、既にこの付近には敵の小型魚雷艇が待ち構えていると言う情報が入っていた。
15駆逐隊は、かつて「ガ島挺身攻撃隊」として共に作戦に従事した第二水雷戦隊の一番隊で、早潮を除く陽炎・親潮・黒潮の3隻が間を置かず触雷により沈没したと言う事だった。
一人でも多く救助したいと思い、気持ちは焦るが辺りは真っ暗で救助作業は思うように捗らない。
一面に重油が浮いてきらきら光る海面を2〜3ノットで探し回るのだから危険な事もこの上ない。
何人救助したかは記憶に無いが、黎明時の敵機来襲を避けるため一時間程で救助作業を打ち切り、3時7分、捜索現場を離れた。
7時30分、ブインに到着すると、重油に
5月10日、21時40分、ラバウルに入港すると、ここには、外南洋部隊から前進部隊へ復帰の命令が待っていた。
この日2時間位の半舷保健上陸が許可されたのでヤマと2人で市街地の方まで行って見たが街の様子は一変しており、八海丸で修理中に兄と一緒に上陸した時に立ち寄った土産物屋を探してみても、何処にあったのかも見当がつかないほどに変っていた。
おそらく米軍の空襲を恐れた現地人たちが早めに町を離れたのであろう、久し振りの上陸も
帰艦すると間もなく、16時50分、に突如出港することになった。
目的地は発表され無かったが、羅針盤の方位と艦橋の雰囲気から「トラックらしい」と言う当直信号員の感がピタリ当たって、12日の昼頃にはトラックの島々が見え始めた。
振り返ってみても、トラックを出て未だ20日も経っていないのになんと懐かしく感ずる事か、南水道を通過するともう母港にでも帰ったような安らを覚える。
今日は何故か大和は見えないが、武蔵には何時ものように大将旗が翻っている。
何処かで誰かが、「五十六さんが死んだと言うのはやっぱりデマか」と呟いている声が聞こえる。
13時、何時もの錨地に投錨したが泊地に大和がいないと物足りないような気もするが、それでもやっぱりトラックは素晴らしい。
艦内は陽気に満ち溢れて兵員たちの顔も一段と晴れやか、一段落すると、各分隊ごとに特配のビールが配られ、嬉しい郵便物も届いた。
夜になると各居住区で古参兵たちが酌み交わしながら語らう笑い声に交じって「さぁらばラバウルよ:」の歌声も聞こえてきた。
警戒配備も4直に緩和されて艦橋はひっそり、信号員長の分まで引き受けて当直を続けていると、早耳の麻生兵曹が
私の顔を見るなり「オイ、内地に帰ると言うのは本当か」と言う。
何の事を言っているのか判らなかったが、「そんな話は全く聞いていませんよ」と答えると、彼は首を
この噂、誰からとも無く期待をこめて流したデマらしいが、結果は「嘘から出た真実」となったのである。
その翌々日から2日間に亘って上陸が許可されたので、ヤマと二人で夏島を歩き回ったが銭湯があるわけでもなく、買い物をするような店も無いので、椰子の木陰に寝転んで過ごした。
帰艦してみると、17日に出港するそうだが一体何処に行くのだろう、とガヤガヤ騒いでいた。
ラバウルで、突然前進部隊に復帰したばかりなのに、何の作戦行動を指示されることも無く、保健上陸まで許可された挙句、追い立てられるように出港したかと思うと、又々2日間に亘って保健上陸?
何か腑に落ちない感じがしたがこの謎も出港後間もなく解ける事になった。
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