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帰郷休暇

年の瀬も迫った12月26日、海風は八根の指揮下を離れ、自力でトラック基地に回航した。
ここで更に遠洋航海に耐え得るだけの補修を行った後、31日トラックを出港して徹底修理のため横須賀経由で佐世保に帰港する事になった。
昭和18年の新年は洋上で迎え、形ばかりのお雑煮を祝ったが、新春の喜びや雑煮の味よりも兵員たちの心は既に母港佐世保の空にあるようだった。
筆者は内地に帰港すれば今度から外泊上陸が許される楽しみもあったが、更に今回は帰郷休暇が許可されるかも知れないと言う嬉しい噂が広がっていた。
新春1月9日、高後崎の灯台が見え始めると兵員たちのざわめきが艦橋に伝わって来た。
入港すると鎮守府望楼からの指示を受けて指定のブイに繋留した。
憶えば昨年5月、山風と並んで繋留した時もこのブイであった。
早速この晩から入湯外泊上陸が許可されることになり11日には船渠ドック入りして、2月20日まで修理に当たる事も決定した。
この間に、紀元節(2月11日)を期して聯合艦隊の将旗(旗艦)を大和から武蔵に移揚すると言う部内公報も伝達された。
初めて経験する外泊上陸は先輩の下宿に泊めてもらうことにしたが帰艦時間が気にかかって眠れず、楽しさは半分のように思えた。
それよりも嬉しかったことは、ドック中に噂どおり半舷休暇を許可されるということだった。
私は先番で外泊から帰艦した日から帰郷することになり、その日の夜行列車に乗り込んだ。
入団後1年10ヶ月ぶりに始めて帰る故郷だったが、往復の車中では女学生たちに持て囃され、村人たちはセーラー服の軍服姿を珍しそうに集まってくる。
たまに行き交うトラックや馬車はわざわざ車を止めて乗せてくれ、母校を訪れると後輩たちに囲まれて矢継ぎ早の質問攻めに合った。
久し振りに接する山河や人情には全く変わりはなかったが、この頃では、銃後*じゅうごもかなり厳しい生活になっていたらしく、子供達の学生服は継ぎぎだらけで草履を履いて通学する生徒も多く見られ、食糧事情もそうとう窮屈なように想えた。
僅か5日間の休暇だったがこの時期に娑婆しゃばの実態に触れながら、家族や友人たちと心行くまで語り合う事が出来た事は、兵員たちにとって鋭気を養うにはこの上もない帰郷休暇であった。
ただ,入港の際に厳しい緘口令が出ていたので、戦果や行動に付いては一切口に出されなかったので、家族や友人には物足りなかっただろうし、自分たちも心残りだった。
海風は1月半余りの入渠修理で完全に修復され、外洋公式運転も無事終って、2月25日、いよいよ母港を後にまたまた前進部隊に復帰する事になった。

  • 銃後の国民・・・前線に兵士を送り出し、夫々の職場にあって後方支援する国民。


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