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最後の交信

両艦は何時もの錨地に400メートル位の間隔に投錨して次期作戦命令を待っていた。
翌19日、14時30分、トロマン山(*)望楼から届いた2艦隊発の信令は、
『信令××号、24駆逐隊ハソノ1艦ヲシテ速ヤカニ救援隊ヲ乗艦セシメ雲鷹救援ノタメサイパンニ急行スベシ』
という24駆逐隊司令宛の緊急信だった。
久保田司令はすかさずこの任務を涼風に命令した。
『涼風ハ直チニ出港シ信令××号ノ任務ヲ遂行サレタシ』
この手旗信号が涼風と最後の交信となったが、奇しくもこの交信は私と山本君の最後の交信にもなった。
旗甲板からベテランらしい了解信号を送ってくれた彼の姿が今も瞼の裏に残っている。
命令を受けた涼風は、14時出港したが、出港すると間もなく、今度は残る1艦をブラウン輸送の護衛に当てるべく電信命令が届いた。
久保田司令は、直ちにサイパンに向け航行中の涼風に打電し、このブラウン輸送任務を涼風に命じ、雲鷹救援任務を海風が遂行することに命令を変更した。
海風は、17時30分、急遽出港して洋上で涼風から救援隊を移してサイパンに急行し、涼風は反転してトラックに向った。
が、涼風のトラック入港と、時を同じくして環礁外で糧秣補給艦伊良湖が敵潜水艦の雷撃を受けたため、この救援が優先され、涼風がブラウン輸送の護衛に向かったのは24日、5時になった。
海風は20日、17時サイパンに入港すると直ちに雲鷹に救援隊を移乗して港外の哨戒に当たる事になった。
当直中、艦橋で耳にした士官たちの話によると、この救援任務が終り次第トラックに船団を護衛した後、横浜に回航するらしいとのことで司令がいてこの任務にこだわったのも、この思惑を計算に入れての事だと言うことだった。
サイパンでは27日まで仮泊して港外哨戒の任に当たり、出入港を繰り返していたが25日には3時間の保健上陸を許可される事になり、早速、後輩たちに遣り繰りを頼んで、ヤマと一緒に上陸することにした。
始めて上陸するガラパンの町だったが、艦橋の噂を知っている2人はそんな所で遊んではいられない、横浜回航を目当てにバナナの買いだしで島中を東奔西走である。
運良く優しいバナナ園の小父さんと出合い、30キロ以上もある大きな房を仕入れることができた。
急いで艦に担いで帰ると、ひそかに信号倉庫にかくまって鍵をヤマと一緒に管理する事にした。
海風は26日が最後の哨戒任務で、7時30分に出港したが、これより前、哨戒中の真夜中に涼風沈没の電波を受信していた。
出港すると間もなく、司令は兵科の士官たちを全員艦橋に集めてこの悲報を伝達していたが、あの命令変更をどう受けとめたのか司令も艦長も士官たちも無言のままで司令の話に聞き入っていた。
われわれ下っ端にはその真意を知る由もないが、若し、艦橋の思惑話が真実としたら、海風は司令駆逐艦なるが故にこの難を逃れたことになる。
元来、駆逐隊は、複数の駆逐艦によって構成される一つの所轄であるが故、その長たる司令が采配を振るのは当然の事だが、若し、あの任務の変更が無かったとしたら、両艦の運命もまた逆転した事に疑う余地はない。
私たち同期の4人組も、ここで山本勝君(21才)が3番手として散って行ったのである。
これもまた、司令の命令変更が無かったら筆者の運命も替わった事は否定できない。
翌朝、8時45分入港した後も、あの交替劇の命令文を直接送信した信号・電信科の兵員たちは一様にこの話で持ちきり、海風の健在を喜びながらも複雑な気持ちだった。

  • トロマン山望楼・・・港湾や島墺の高台に設けた信号発信所。トロマン山は夏島に在ってトラック諸島で一番高い山。

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