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最後の母港

10月17日、11時出港。
涼風と共に金剛・榛名を護衛してブラウンから大島島ウエーキ方面の作戦に従事したが作戦と言っても攻撃を目的とするものでは無く、聯合艦隊の健在振りを誇示するためのデモンストレーションであったように想われる。
26日にトラックに帰投したが、この時点では既にソロモン方面の戦況は究極に達し、外南洋は壊滅状態に近く、ブラウン・クェゼリン等の内南洋を守り抜くこともあやふやな状態になっていた。
こんな戦局にも拘らず、海風と涼風は、31日、5時出港、伊勢・山城・隼鷹じゅんよう雲鷹うんよう・利根を護衛して内地に回航した後、母港で修理整備を行なう事になった。
この航海中に定期の進級、任官が発表されて憧れの水兵長に進級した。
横3本線の下に黄色の桜花と立錨の新制の階級章も配布され、兵としては海風信号員の先任としての責任を負わされることになった。
この日から兵の進級年次が改正され、1期後輩と同時進級になったので、半年間タダ働きしたような気もしたが
これも次々に戦死して行く先任者を補うための措置だったのであろう。
11月5日、5時37分、安全圏を直前にした豊後水道の入り口で隼鷹が敵潜水艦の雷撃を受けたが、幸い航行に支障はなく、海風と涼風は付近の対潜掃討を行なって翌6日、9時、佐世保に入港した。
1日置いて8日には涼風と艦首みよしを並べて同じ船渠に入渠することになった。
20日近くの船渠整備と言うことで、又々帰郷休暇を許可される事になったが、つい3ヶ月ほど前に帰郷したばかりだったので、厳しい戦況の中ではあまり有頂天になってはいられなかった。
故郷に帰っても負け戦の連続で自慢して話せるような戦果も無く、銃後の窮屈な生活状態にかえって気をつかうような事が多かった。   
僅か4日間の帰郷休暇だったが多くの兵士たちにとってこれが最後の故郷(さと)帰りとなったのである。
11月27日、揃って出渠すると、12月1日、出港して途中公式運転を済ませ、翌日六連に入港した。
その後何の作戦か判らないままに、徳山、柱島、屋島、釜山、部崎沖、柱島、安下庄、徳山、鎮海等に出入港、仮泊を繰り返した挙句、12月11日正午、最終的に釜山に入港した。
ここでは13日までの停泊で、入湯上陸を許可される とになり、早速、私信号で涼風の山本君と上陸日を遣り繰りして13日に併せるよう打ち合わせた。
その日上陸すると2人は、佐世保の市街に似た坂道の多い釜山の街を歩きながら、恐らくこれが最後の上陸になるであろう事を語り合っているうち、その斜面に立ち並ぶ花町で一夜を過ごす事に決めた。
遊郭を一巡りしてみると、通りすがりのどの青楼にも顔見知りの先輩や後輩たちばかりである。
昨晩もこうであったと聞いたが、多分この2晩は海風と涼風の兵士たちで賑わったのであろう。
この夜、2人は同楼に内地出身の娼婦を選んで故国最後と想われる一夜を過ごした。
翌14日朝、2人は釜山の岸壁でお互いの武運を祈リ、握手して艦に帰ったがこの握手が2人にとって今生の別れの握手となったのである。
その日釜山を、16時に出港し、六連で仮泊した後、15日、16時30分、佐伯に仮泊し、翌16日、7時、船団を護衛して出港することになった。
豊後水道を出て護衛の位置に就いてみると、このT船団(日蘭丸・但馬丸・日美丸)たるや又滅法速力が遅く、船団の廻りをぐるぐる回りながらの護衛で、トラックに入港したのは26日の、18時になっていた。
思えば涼風と護衛行動を共にしたのはこの護衛が最後となったのである。


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