乗艦
翌朝お待ち兼ねの海風入港。
斯くして、昭和17年3月7日、私の青春を預けた海風生活の第一日は遥か赤道を超えたここケンダリーから始まることになった。
乗艦すると、先ず隊付き信号員長の
この後、田畑二水の説明で艦内を案内され、食事当番、喇叭・洗面器磨き、吊り床の上げ下ろし、上司の身の周り整理等、新参兵としての義務的作業の最も効果的な手順について引継ぎを受けた。
この艦の乗組員は230人余りで、4ヶ分隊で編成されており1分隊が砲術術科、2分隊は水雷科、3分隊は信号・通信・暗号・操舵・掌帆・主計科の混合で4分隊が機関科となっていた。
分隊長は1分隊、砲術長・2分隊水雷長・3分隊航海長・4分隊機関長が夫々兼任していた。
信号員の居住区は艦橋の恰度真下あたりの下甲板で、2分隊・3分隊同居の総勢100人余りだった。
テーブルは1斑で、信号員9・操舵員3・掌帆員3の15人、班長は鬼軍曹の呼び声高い操舵員長の河井一曹が兼任していた。
恰度この日の夜、大本営から開戦以来の総合戦果が発表されていた。
総合戦果(海軍部)
撃沈した艦艇 114隻。
大中破した艦艇 536隻。
撃沈した船舶 105隻。
大中破した船舶 91隻。
撃墜した飛行機 1,076機。
わが方の損害。
沈没した艦艇 19隻。
大中破された艦艇 4隻。
沈没した船舶 27隻。
自爆又は未帰還機 122機。
掲示板に戦果が書き込まれる度に、この未曾有の大戦果に艦内は沸き立っていた。
当時はスラバヤ沖海戦の直後とあって兵員たちの士気も極めて旺盛で、警戒配備も2直になっていた。
海風はその翌日輸送船の国川丸を護衛して出航する事になった。
練習生時代に艦船勤務はかなり厳しいと聞いていたが、戦時航海中の非番直は食事の始末と当直時間の15分前に古参兵を起こして回るぐらいで、別にこれと言って決められた仕事は無かった。
スラバヤ海戦が終ったばかりで、吊り床は殆ど
3月13日、(恰度筆者の誕生日)船団はセレター(マレー半島の最南端)に入港した。
ここでは2週間程停泊する事になったので警戒配備も4直になり、古参兵たちにはちょっとした休養のようだったが、われわれ下っ端には迷惑な事で、ましてや最新参の私には愈々根性試しの手始めでもあった。
嬉しい事に掌信号兵と掌電信兵は、機密保持の手当てとして月額2円25銭が加給され、更に当直勤務の見返りとして甲板掃除免除の特典まで受けていた。
それにしても当直の合間に食事の用意から後片付け、古参兵の靴磨きから洗濯、洗面器や喇叭磨きまで一手引き受けだから並大抵の重労働ではない。
おまけに、
古参兵から順番に実にくだらない小言をさんざ聞かされた挙げ句、最後の仕上げは、「軍人精神注入棒」と称する樫の棒が
この道理より矛盾が先行する行為が「強靭な海軍精神を養成する」と言う古参兵の講釈を遮二無二納得させられるのだから堪ったものではない。
青黒く腫れ上がった尻を撫でながら
ここにきて初めて,練習生時代に聞かされた艦隊勤務の厳しさを思い知らされたのである。
26日、待ちに待った出港用意の喇叭が響き、行き先は直ぐお隣の
港内には10,000トン級の船舶を収容すると言う英国海軍自慢の浮き
翌27日には待望の保健上陸が許可され、占領直後の山下兵団の陸軍さんが先導で、一列縦隊の地雷を避けながらの散策となった。
街道に立ち並んだ倉庫の外壁は横文字の落書きだらけで、殆ど意味は判らないが、合間合間の「JAP」はおそらく日本軍を侮蔑して英兵が書いたものであろう。
後ろの方で隊列に吠えついてくる野良犬を見て「オッ・・・こいつ日本語で吠えている」と言う誰かのジョークが聞こえていた。
陸軍さんの此処が一番安全だ、と言う別荘の庭のような青々とした芝生の上で昼食を済ませた。
昼食と言っても、海軍特定の弁当で、一ミリ程もあるニュームの弁当箱に詰込まれた麦飯と東郷元帥が発案されたと言う「肉じゃが」の惣菜だけである。
午後は保健上陸お決まりの相撲大会になり、無礼講と言うので隊信号長を投げ飛ばしたら、帰艦して古参兵にこっ酷く説教うけた。
今晩の「整列」ではきっと樫の棒のお返しがあるものと覚悟していたら、折よくリンガエン湾に出撃のウナ電で難を逃れることができた。
翌28日黎明、輸送船団を護衛して昭南港を出撃。
4月5日リンガエン湾に入泊し、ここでも保健上陸を許可されたがここは未だ激戦の跡も生々しく、米兵の屍があちこちに散らばっていた。
10メートルほど道上のマンゴの木陰には無数の遺体が折り重なっており、路傍に横たわった遺体は異様な悪臭を放っていたが誰も気にする様子もなかった。
町外れの露店では茶碗の中に入れて固めたような黒砂糖の
皆が行列をして糖分を補給していると、直ぐ隣りの店では、色の小黒い日本人まがいの小母さんが右足で器用に腰巻を跳ね上げて包丁を拭きながら美味しそうな西瓜の切り売りをしている。
ちょっと
帰りがけにマンゴの木の下までよじ登って米兵の遺体からベルトや時計等を失敬して帰るチャッカリ屋もいたが、私にはそれ程の勇気は無かった。
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