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海風(駆逐艦)とわが青春

元海風信号員 田邉一人

巣立ち

昭和17年1月29日、ここ横須賀海軍航海学校では卒業式を2日後に控えた練習生たちに大方の配属が伝達され、希望通りに配属されることになった満悦組と、意外な配置に戸惑うチンブリ組に明暗を分けていた。    ※ 航海学校の写真へ
ずばり、第一希望をかなえられた私は指名通り24駆逐隊(当時佐世保鎮守府管下の最新鋭駆逐隊)に配属されることになった。
翌朝、隊士に呼ばれて配乗を令駆逐艦(海風)に指定され同席した上橋かんばししげる君・山本やまもとまさる君・小沢おざわのりたか君も、夫々江風かわかぜ涼風すずかぜ・山風に配乗の伝達を受けた後、私は厳封された4人分の科表を託され、現地に着くまで責任者として行動するよう申し付けられた。
4人は、早速点検用の一種軍装に着替え、残りの被服は全部*いのうに詰め込んで、「呉海兵団行き」の荷札を付け、横須賀駅まで担いで行って貨物列車に積み込んだ。
この後、先任教員から預けてあった各自の貴重品と預金通帳をうけとると、明日の卒業式を待つだけになり、同期生たちはその夜三三・五五にたむろして思い思いに別れを惜しみながら練習生最後の夜を語り明かした。
卒業式は31日、9時、校庭の号令台に立った校長田結たゆいみのる中将の『第五期普通科信号術練習生終業の宣言』で、あらかじめ貼り付けてあった左袖の黒い紙が剥がされ双眼鏡に桜の花をあしらった真新しい技章と共に486名のせう信号兵が誕生した。
卒業生は校長から最後の訓辞を受けた後、定員分隊の兵員と在校練習生達の「帽を振れ」に送られて夫々の実務部隊に巣立って行った。
この日私達は、横須賀駅から特別仕立ての佐世保行き軍用列車に便乗したが、当時の軍用列車は車窓が全て鎧戸よろいどになっていたので車外の景色を楽しむようなことはできなかった。
翌日呉海兵団に着いて衣嚢の整理が終わった頃はもう薄暗くなっていた。
指定された兵舎に入ると居住区の先任伍長から仮入団中の行動等に付いての説明を受けた後、遅まきの夕食が用意されたが多分、あり合わせの食材を割振ったのであろう練習生時代より目立って量が少ないのにがっかりした。
食べ盛りの若者にとって何よりの力は満腹感に浸ることで、毎日、夕食が終った後も更に空腹を補う為に酒保に向けて一目散である。
練習生時代とは違い、自分の銭を自由に使えるようになった気楽さもあって、みんな一杯5銭のかけウドンを立て続けに2杯ぺろり平らげる健啖ぶりだった。
仮入団と言う居候的存在で遠慮がちな思いは有ったが極めて放任的で、昼間ひるまも特に決められた課業は無く、自主的に海兵団の新兵にじって手旗信号の訓練をする程度だった。
こんな日が3週間程も続いた朝、4人は先任伍長室に呼び出された。
何のお目玉を頂戴するのだろうと恐る恐る伍長室に入ると、カイゼル髭の先任伍長は意外にご機嫌だった。
貴様たちの便乗する船が決まったので、大至急準備して「13時30分までに港内に停泊中の朝日丸に乗船せよ」と言う命令だった。
時計を覗くと4時間程しか余裕がない、4人は大急ぎで主計科に行って転勤手続きを済ませ、転勤旅費をうけ取ると、何時でも持ち出せるように整理してあった衣嚢を担いで追い立てられるように団門を出た。
何時も猟犬のように食事制限をされている上に、準備に夢中になっていたこともあって、娑婆に出ると途端に空腹感を覚えてきた。
取り急ぎ海仁*かいじん集会所しゅうかいじょに駆け込んで大盛り天丼で腹こしらえを済ませ時間の余裕を見て波止場に急いだが桟橋には既に朝日丸から迎えのンチが待っていた。

    ※ 駆逐艦 海風 の写真へ


  • 駆逐隊…複数の駆逐艦で構成する一所轄。(二十四駆逐隊は海風・江風・涼風・山風の四艦で構成されていた)
  • 指令駆逐艦…駆逐隊の最高指揮官が乗艦する駆逐艦。
  • 分隊…分隊は陸軍の中隊に当たるが、艦船部隊では各科ごとに編成している事が多く、分隊長(大中尉)分隊士は(少尉・兵曹長)はその補佐役。
  • 功科表…功績・成績表。(個々には絶対公開しない)
  • 衣嚢…下士官兵が衣類を収納する袋。
  • 特技章…各種の特科学校で練習生の過程を終了した者に与えられる記章(左マーク)。
  • 点検用…夏、冬3着づつ与えられる軍服の中で1番上等の新しい軍服。
  • 1種軍装…冬用の軍服、2種は夏服、3種は戦闘服(夏冬兼用(カーキー色)。
  • 海仁会集会所…下士官兵の娯楽、宿泊、食事等の施設がある集会所。
  • ランチ…軍艦や大型船舶が搭載している乗組員を輸送する海上バスのような大型内火艇。

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