東京急行
24駆逐隊は即日外南洋部隊の指揮下に入り神通(2水戦旗艦)に伴われて涼風と共に出撃。
翌18日、進攻中の一木支隊船団と合流してガダルカナル突入を図ったが、25日ツラギ泊地(ガダルカナル島の北30キロ)に進入直前に敵小型機の猛爆を受けて旗艦神通が被爆し航行不能に陥ってしまった。
戦艦 『山城』 第2戦隊旗艦
船団は、やむなく反転せざるを得なくなり、涼風は曳航された神通を護衛してトラック基地に向かい、海風はこの日合流した江風と共に残存の船団を護衛してショートランド基地(ソロモン群島西端にある伊豆大島ほどの小島)に入泊することになった。
が、この揚陸失敗を切っ掛けにガダルカナル〜ショートランド間(約300カイリ)を「東京急行」と呼ばれた駆逐艦による高速輸送が行われることになった。
ご多聞に漏れず24駆逐隊も一役買うことになったが、この作戦、殆どが陸兵と糧秣の輸送で、26〜30ノットで突っ走り、給油、積み降ろし(五〜七時間)を含めて、一往復概ね30時間と言う行程の繰り返しで、敵小型機とのお付き合いは毎日の日課となった。
在泊艦船の攻撃や揚陸部隊の援護射撃等で作戦を変更する事も度々あったが、それでも1月足らずの間にガダルカナル方面への出撃は、実に14回と言う分刻みの超過密行動になった。
8月27日、早速、一木支隊の兵員輸送に取り掛かり第一陣はカミンボ岬に揚陸成功した
続いて28日、2回目の輸送は敵小型機の熾烈な攻撃を受けて揚陸を断念して引き返すことになった。
が、その日ショートランドに帰投すると、給油してそのまま3回目の出撃となり今度は対岸のタイボー岬に揚陸を試み、見事成功した。
8月31日、四回目の出撃は増援の川口支隊を揚陸することになった。
この時、支隊長の川口少将(静岡聯隊と聞いている)が海風に乗艦されたが、陸の猛将も海の上は苦手らしく、ちょっと揺れが酷いとゲロゲロやるし、敵機が来襲する度に、艦橋の周りをうろつき回るので、艦長に「閣下少し落ち着いて下さい」と嗜められる場面も度々あった。
それでもこの日はタイボー岬に無事全員揚陸できて万万歳だった。
その後も、毎日1〜2隻の駆逐艦が損傷を受ける中で、陸軍の舟艇部隊を援護したり、青葉支隊を無事タイボー岬に揚陸させたりして死に物狂いの成果をあげていた。
9月3日、こんな作戦行動の最中 に突然平井司令が更迭され、猪突猛進型の中原義一中佐が着任した。
ある戦記には(平井司令の作戦行動が消極的)と記されてあったがその真実は知る由もない。
新司令は応召の予備役軍人だったが、手始めのお手柄が敵の哨戒艇退治となった。
着任して間もない9月9日、22時頃、涼風と共にツラギ泊地に侵入すると湾内に敵味方不明の艦影を発見したのである。
増援部隊の作戦行動計画の中にはこの時間ツラギ泊地に見方艦船はいないことになっていた。
艦長は直ちに「右砲戦」を命令、密かに接近して探照灯を照射すると、ハッキリ銀色に浮き出たのはなんと敵の哨戒艇であった。
砲術長の「打ち方始め」の号令で、12,7センチの主砲5門が一斉に火をふいた。
待ち構えていたように涼風からも轟音が聞こえてくる。両艦の2〜3斉射で見る間に哨戒艇は火炎に包まれた。
「よしよしあれで間もなく沈むだろう、艦長ぼつぼつ引き上げるか」司令の一言に、こんな所に長居は無用とばかり第 5戦速で突っ走り敵の空襲圏を脱出した頃にはもう水平線が白み始めていた。
敵陣地の攻撃やお家芸の夜襲攻撃には華々しさがあったが、兵員や糧秣の輸送は全く戦果の見えない地味な作戦である。
主力部隊をあらまし揚陸した後は、兵員だけでなく糧秣を輸送することが多くなっていた。
この場合、9分目位まで糧秣を詰め込んだドラム缶を数珠繋ぎにして沖合に放り込むと水面スレスレに浮ぶ。
これを陸上で待ち構えている陸軍さんが泳いで来てこれに咥 えたロープを結わえて砂浜に引っ張り上げると言う寸法だが、全てが夜中の作業でちょっとでも手順が狂うとみんなオジャンになってしまう。
9月24日の夜、14回目の出撃の時、22時頃だったと記憶しているが、カミンボ岬(タイボー岬の対岸)で陸兵と糧秣を陸揚げ中に、敵の哨戒機が400メートル位の低空で飛んで来た。
江風も涼風も近くで陸揚げしていたが、艦は椰子の葉っぱでカムフラージュしていたので、哨戒機はこれに気付かないのか、確かめようとしているのか判らないが艦の上空を悠々と旋回し始めた。
これを苛々 しながら見ていた砲術長が、「あの飛行機なら25ミリ(機関銃)を50発も撃てば必ず落とせる」と言いだした。
これ又頭にきていた艦長はこれを認めて直ちに「対空戦闘」を発令した。
待っていましたとばかり砲術長の「打ち方始め」の号令で、曳光弾が一斉に流星花火のような尾を引いて夜空に吸い込まれて行く。
申し合わせたように江風と涼風からも何本もの赤い筋が飛び交い始めた。
この射撃50発どころか主砲の対空射撃も全く手応えなく、不意を食った哨戒機は急にスピードを上げて東の空にバイバイ・・・
さぁ、こうなったら後がおっかない、直ちに揚陸を中止して36計を図ったが遅かりし由良の助、半時も経たない間に小型機8機が来襲してきた。
3艦は最大戦速で回避しながら対空砲火で応戦したが敵は反復攻撃で執拗に迫って来る。
主犯と見たらしく全機が遮二無二海風に襲いかかってくるように思われる。
艦長の舵捌き宜しく直撃弾こそま逃 れたが至近弾と機銃弾で艦は穴だらけになってしまった。
負傷者が続出し始め、2番機銃台の大渕兵曹がのけ返って倒れるのが見えた。
艦橋でも見張り中の森田兵曹が脛部盲管銃創の重傷を負った。
筆者も自分では気付かなかったが、麻生一水に「何だお-前の顔は」と言われ、顔を撫でてみると手のひらが真っ赤になった。
吃驚して治療室(戦闘中は士官室を開放)に駆け込むと、ここでは負傷者がごった返しており、重傷者が苦痛で顔を歪 めている。
看護兵がきて顔の血を拭きとり、ピンセットで眉間から2ミリ程の断片を取り出して消毒の後はヨーチンと絆創膏任せの海軍療法である。
立ち上がろうとすると、右足の脛が痛い、見ると此処からも血が流れている。
看護兵にこのことを告げると、あぁ、此処もか、又々ピンセットを取り出して面倒そうに消毒するとヨーチンの後に軟膏を塗りつけて絆創膏を貼り付け、「何だこれぽっちの掠り傷、これでよし、行け」尻っぺたを軽く叩かれて艦橋に駆け上がった。
僅か20分程の間だったが、どうやら敵さんは追撃を諦めたらしく戦闘はもう終わっており、艦橋ではほぼ平静を取り戻していた。
が、2番発射管付近では至近弾による小火災がおこったらしく、魚雷の誘爆を恐れて雷撃員たちが必死の消火作業を続けていた。
随分長いように感じたが2時間そこそこの出来事であったように思う。
幸い航行には支障なく、翌日ショートランドに帰投すると毎日定期便でやってくる8,000メートル位上空のコンソディデッドB24と睨み合いながら残された陸兵と物件を降ろし、被弾箇所に木栓を打ち込む応急修理が行われた。
艦内の正常復帰も徹夜で行われたが、この間に重傷の東一水が遂に息絶えた。
彼は私の兄と同年兵で親しくしてもらって居たが即日三等兵曹に特進し、戦友たちの手によってブイン基地(ブーゲンビル島)近くの山中に手厚く葬られた。
彼の葬送については、軍艦旗に包まれた遺体と、椰子の木を荒削りにした墓標を乗せた内火艇を見送った事を幻のように記憶しているが、戦死の瞬間をはっきり見届けた大渕兵曹の葬送については何故か記憶に無い。
翌26日、応急修理のため海風は単独でトラック基地に回航することになり、途中ポナペ付近で森田兵曹他の負傷者を降ろしたような記憶もあるが定かではない。
9月28日、南水道を通過すると、泊地では大将旗の翻 る旗艦大和が『海風ノ戦果ヲ祝ス』の旗?信号で迎えてくれた。
この外3戦隊(金剛型)、4戦隊(愛宕型)、5戦隊(足柄型)等の艨艟 が勢揃いしており、恰も母港にでも帰ったような安らぎさえ覚える。
何処で行き違いになったのか涼風は既に入港しており、若しかして修理のため内地に回航するのでは?と微かな期待を持っていたが、この期待はその日の内に吹っ飛んでしまった。
2艦隊旗艦愛宕からの信号は、『海風ハ直チニ明石 (工作艦)に横付ケシ緊急修理ヲ行イタル後次期作戦ニ備エテ待機スベシ』と言う信令(信号による命令)だった。
工作艦『明石』
ふと、大きな作戦命令が待ち構えているような予感を覚えたが、このことを暗示するかのようにその日の夕刻には江風も入港してきた。
明石での修理は昼夜突貫作業で行われ、2〜3日で終ったがその後作戦らしい命令もなく、南北水道の哨戒で出入港を繰り返していた。
入港して当直交代のとき、艦橋の片隅で若い士官たちが悲壮な顔つきでヒソヒソ話をしている。
そっと耳を傾けると、なんと、決死隊を編成してガダルカナルに殴り込みをかけると言うのである。
ここで話は少々横道に逸 れるが、私には海風で出会い、今なお無二の親友として交誼を続けている1人の同年兵がいた。
2人は日頃、辺 ・山 と呼びあっていたが、ヤマと呼んでいた彼の名は、山本平八郎。
愛媛県は宇和港で、網元の次男坊として生まれ育った彼は、巡洋艦足柄から移乗してきた同班の操舵員で、滅法義理人情に強く銀蝿 の大名人でもあった。
古今聯合艦隊総帥の姓名を併せ持つ彼は、東郷五十六と呼ばれたりして、何時も海風の人気男だった。
共に鬼軍曹のご機嫌とりに苦労したせいもあって、お互いに2人の青春を語り合うには欠かす事の出来ない存在となっていた。
言うまでも無く、この重大ニュースを一番先に打ち明けたのも彼だったが、この噂、1日も経たないうちに艦内に知れ渡り、2〜3日経った朝遂に現実のものとなった。
五戦速・・・艦の速力には徹速・半速・原速・強速・1,2,3.4.5、戦速・最大戦速の10段階があり、艦の最大速力によって異なるが、海風の場合の五戦速は32ノット。
銀蝿・・・烹炊所や酒保で珍しい食物や特配品を上手に失敬してくること。
前へ 手記 次へ
24駆逐隊は即日外南洋部隊の指揮下に入り神通(2水戦旗艦)に伴われて涼風と共に出撃。
翌18日、進攻中の一木支隊船団と合流してガダルカナル突入を図ったが、25日ツラギ泊地(ガダルカナル島の北30キロ)に進入直前に敵小型機の猛爆を受けて旗艦神通が被爆し航行不能に陥ってしまった。
戦艦 『山城』 第2戦隊旗艦
船団は、やむなく反転せざるを得なくなり、涼風は曳航された神通を護衛してトラック基地に向かい、海風はこの日合流した江風と共に残存の船団を護衛してショートランド基地(ソロモン群島西端にある伊豆大島ほどの小島)に入泊することになった。
が、この揚陸失敗を切っ掛けにガダルカナル〜ショートランド間(約300カイリ)を「東京急行」と呼ばれた駆逐艦による高速輸送が行われることになった。
ご多聞に漏れず24駆逐隊も一役買うことになったが、この作戦、殆どが陸兵と糧秣の輸送で、26〜30ノットで突っ走り、給油、積み降ろし(五〜七時間)を含めて、一往復概ね30時間と言う行程の繰り返しで、敵小型機とのお付き合いは毎日の日課となった。
在泊艦船の攻撃や揚陸部隊の援護射撃等で作戦を変更する事も度々あったが、それでも1月足らずの間にガダルカナル方面への出撃は、実に14回と言う分刻みの超過密行動になった。
8月27日、早速、一木支隊の兵員輸送に取り掛かり第一陣はカミンボ岬に揚陸成功した
続いて28日、2回目の輸送は敵小型機の熾烈な攻撃を受けて揚陸を断念して引き返すことになった。
が、その日ショートランドに帰投すると、給油してそのまま3回目の出撃となり今度は対岸のタイボー岬に揚陸を試み、見事成功した。
8月31日、四回目の出撃は増援の川口支隊を揚陸することになった。
この時、支隊長の川口少将(静岡聯隊と聞いている)が海風に乗艦されたが、陸の猛将も海の上は苦手らしく、ちょっと揺れが酷いとゲロゲロやるし、敵機が来襲する度に、艦橋の周りをうろつき回るので、艦長に「閣下少し落ち着いて下さい」と嗜められる場面も度々あった。
それでもこの日はタイボー岬に無事全員揚陸できて万万歳だった。
その後も、毎日1〜2隻の駆逐艦が損傷を受ける中で、陸軍の舟艇部隊を援護したり、青葉支隊を無事タイボー岬に揚陸させたりして死に物狂いの成果をあげていた。
9月3日、こんな作戦行動の
ある戦記には(平井司令の作戦行動が消極的)と記されてあったがその真実は知る由もない。
新司令は応召の予備役軍人だったが、手始めのお手柄が敵の哨戒艇退治となった。
着任して間もない9月9日、22時頃、涼風と共にツラギ泊地に侵入すると湾内に敵味方不明の艦影を発見したのである。
増援部隊の作戦行動計画の中にはこの時間ツラギ泊地に見方艦船はいないことになっていた。
艦長は直ちに「右砲戦」を命令、密かに接近して探照灯を照射すると、ハッキリ銀色に浮き出たのはなんと敵の哨戒艇であった。
砲術長の「打ち方始め」の号令で、12,7センチの主砲5門が一斉に火をふいた。
待ち構えていたように涼風からも轟音が聞こえてくる。両艦の2〜3斉射で見る間に哨戒艇は火炎に包まれた。
「よしよしあれで間もなく沈むだろう、艦長ぼつぼつ引き上げるか」司令の一言に、こんな所に長居は無用とばかり
敵陣地の攻撃やお家芸の夜襲攻撃には華々しさがあったが、兵員や糧秣の輸送は全く戦果の見えない地味な作戦である。
主力部隊をあらまし揚陸した後は、兵員だけでなく糧秣を輸送することが多くなっていた。
この場合、9分目位まで糧秣を詰め込んだドラム缶を数珠繋ぎにして沖合に放り込むと水面スレスレに浮ぶ。
これを陸上で待ち構えている陸軍さんが泳いで来てこれに
9月24日の夜、14回目の出撃の時、22時頃だったと記憶しているが、カミンボ岬(タイボー岬の対岸)で陸兵と糧秣を陸揚げ中に、敵の哨戒機が400メートル位の低空で飛んで来た。
江風も涼風も近くで陸揚げしていたが、艦は椰子の葉っぱでカムフラージュしていたので、哨戒機はこれに気付かないのか、確かめようとしているのか判らないが艦の上空を悠々と旋回し始めた。
これを
これ又頭にきていた艦長はこれを認めて直ちに「対空戦闘」を発令した。
待っていましたとばかり砲術長の「打ち方始め」の号令で、曳光弾が一斉に流星花火のような尾を引いて夜空に吸い込まれて行く。
申し合わせたように江風と涼風からも何本もの赤い筋が飛び交い始めた。
この射撃50発どころか主砲の対空射撃も全く手応えなく、不意を食った哨戒機は急にスピードを上げて東の空にバイバイ・・・
さぁ、こうなったら後がおっかない、直ちに揚陸を中止して36計を図ったが遅かりし由良の助、半時も経たない間に小型機8機が来襲してきた。
3艦は最大戦速で回避しながら対空砲火で応戦したが敵は反復攻撃で執拗に迫って来る。
主犯と見たらしく全機が遮二無二海風に襲いかかってくるように思われる。
艦長の舵捌き宜しく直撃弾こそま
負傷者が続出し始め、2番機銃台の大渕兵曹がのけ返って倒れるのが見えた。
艦橋でも見張り中の森田兵曹が脛部盲管銃創の重傷を負った。
筆者も自分では気付かなかったが、麻生一水に「何だお-前の顔は」と言われ、顔を撫でてみると手のひらが真っ赤になった。
吃驚して治療室(戦闘中は士官室を開放)に駆け込むと、ここでは負傷者がごった返しており、重傷者が苦痛で顔を
看護兵がきて顔の血を拭きとり、ピンセットで眉間から2ミリ程の断片を取り出して消毒の後はヨーチンと絆創膏任せの海軍療法である。
立ち上がろうとすると、右足の脛が痛い、見ると此処からも血が流れている。
看護兵にこのことを告げると、あぁ、此処もか、又々ピンセットを取り出して面倒そうに消毒するとヨーチンの後に軟膏を塗りつけて絆創膏を貼り付け、「何だこれぽっちの掠り傷、これでよし、行け」尻っぺたを軽く叩かれて艦橋に駆け上がった。
僅か20分程の間だったが、どうやら敵さんは追撃を諦めたらしく戦闘はもう終わっており、艦橋ではほぼ平静を取り戻していた。
が、2番発射管付近では至近弾による小火災がおこったらしく、魚雷の誘爆を恐れて雷撃員たちが必死の消火作業を続けていた。
随分長いように感じたが2時間そこそこの出来事であったように思う。
幸い航行には支障なく、翌日ショートランドに帰投すると毎日定期便でやってくる8,000メートル位上空のコンソディデッドB24と睨み合いながら残された陸兵と物件を降ろし、被弾箇所に木栓を打ち込む応急修理が行われた。
艦内の正常復帰も徹夜で行われたが、この間に重傷の東一水が遂に息絶えた。
彼は私の兄と同年兵で親しくしてもらって居たが即日三等兵曹に特進し、戦友たちの手によってブイン基地(ブーゲンビル島)近くの山中に手厚く葬られた。
彼の葬送については、軍艦旗に包まれた遺体と、椰子の木を荒削りにした墓標を乗せた内火艇を見送った事を幻のように記憶しているが、戦死の瞬間をはっきり見届けた大渕兵曹の葬送については何故か記憶に無い。
翌26日、応急修理のため海風は単独でトラック基地に回航することになり、途中ポナペ付近で森田兵曹他の負傷者を降ろしたような記憶もあるが定かではない。
9月28日、南水道を通過すると、泊地では大将旗の
この外3戦隊(金剛型)、4戦隊(愛宕型)、5戦隊(足柄型)等の
何処で行き違いになったのか涼風は既に入港しており、若しかして修理のため内地に回航するのでは?と微かな期待を持っていたが、この期待はその日の内に吹っ飛んでしまった。
2艦隊旗艦愛宕からの信号は、『海風ハ直チニ
工作艦『明石』
ふと、大きな作戦命令が待ち構えているような予感を覚えたが、このことを暗示するかのようにその日の夕刻には江風も入港してきた。
明石での修理は昼夜突貫作業で行われ、2〜3日で終ったがその後作戦らしい命令もなく、南北水道の哨戒で出入港を繰り返していた。
入港して当直交代のとき、艦橋の片隅で若い士官たちが悲壮な顔つきでヒソヒソ話をしている。
そっと耳を傾けると、なんと、決死隊を編成してガダルカナルに殴り込みをかけると言うのである。
ここで話は少々横道に
2人は日頃、
愛媛県は宇和港で、網元の次男坊として生まれ育った彼は、巡洋艦足柄から移乗してきた同班の操舵員で、滅法義理人情に強く
古今聯合艦隊総帥の姓名を併せ持つ彼は、東郷五十六と呼ばれたりして、何時も海風の人気男だった。
共に鬼軍曹のご機嫌とりに苦労したせいもあって、お互いに2人の青春を語り合うには欠かす事の出来ない存在となっていた。
言うまでも無く、この重大ニュースを一番先に打ち明けたのも彼だったが、この噂、1日も経たないうちに艦内に知れ渡り、2〜3日経った朝遂に現実のものとなった。
前へ 手記 次へ
▲ Top