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ミッドウェー海戦

5月21日柱島に入港すると、泊地にはミッドウェー攻略戦に参加する大艦隊が集結しており、大将旗の翻る戦艦大和(ミッドウェー戦には不参加)を筆頭に数百隻の艨艟もうどうが猛訓練を続けている光景はまさに世界最強を誇る帝国海軍の偉容を感じずにはいられなかった。
入港後、24駆逐隊も出撃に備えて数日間訓練を続けたが、この作戦計画は下士官兵の間にも広く知れ渡っており、花町に遊ぶ兵士たちの中にも、「今度はミッドウェーに日の丸を立てて帰るからなぁ」などと息巻いて遊女たちの関心をあおっている者もいるようだった。
5月27日、折しも海軍記念日を期して柱島を出撃することとなった。
警戒部隊として北回りの進路をとった24駆逐隊は機動部隊本隊とは別行動だったが、この作戦、日の丸の旗どころかコテンパンの惨敗となったのである。
基地攻撃か、艦船攻撃かの決断に迷って爆弾と魚雷の装着を繰り返しているうちに、空母ヨークタウン・ホーネット・エンタープライズを基幹とする敵の機動部隊に先手を打たれ、第1、第2航空戦隊の母艦群は全艦被弾し、聯合艦隊が虎の子の頼みとする赤城あかぎ加賀かが飛龍ひりう蒼龍そうりうの母艦群はことごとく航行不能に陥ってしまった。
着艦場所を失った百戦錬磨の搭乗員たちは一部海上着水を試みる者もあったが、大半が艦隊の上空を旋回しながら水中に突っ込んで自爆して行ったという。
旗艦飛龍に座乗ざぜうの第2航空戦隊司令官山口多聞たもん少将(中将に特進)は、艦長加来かく止男大佐(少将に特進)と共に紅蓮ぐれんほのお渦巻うずまく艦上に毅然として佇立ちょりつ
舷側に横付けした駆逐艦(第10駆逐隊巻雲・風雲)に御真影をおうつししたのち、全員を燃え盛る飛行甲板に集めて最後の訓辞を行い、信号喇叭隊の君が代吹奏裡に軍艦旗を降納され、残存乗員には「総員退去」を命令して全員を駆逐艦に移乗せしめ、部下の涙の嘆願も払いのけて第10駆逐隊(阿部司令)に自沈するための魚雷発射を命じたのである。
嗚咽の中で「何か形見を頂けませんか」と肩をふるわせる伊藤首席参謀に艦内帽を脱いでふわりと投げ渡し、居並ぶ加来艦長に『いい月だなぁ艦長』と一言、共に艦橋に消えて行かれたという。
時に昭和17年6月6日、2時10分、日出の速い(戦時中は全域日本の中央標準時で行動していた)東南太平洋の水平線は白み始めていた。
両提督は駆逐艦巻雲まきぐもが涙と共に発射した93式酸素魚雷の介錯を受けて旗艦飛龍と運命を共にしたのである。
   燃え狂う炎を浴びて艦橋に
          立ちつくさせしわが提督は
   海の子の雄々しく踏みて 来にしみちに
          君立ち尽くし神上がりましぬ

自沈する航空母艦『飛龍』 第二航空戦隊旗艦
自沈する航空母艦『飛龍』 第二航空戦隊旗艦

鬼神をも泣かしむる両提督の最期を悼んで、山本五十六聯合艦隊司令長官が詠まれた追悼弔歌は実に感動的なものだった。
無敵を誇った聯合艦隊も、始めて味わう負け戦にガックリ肩を落として帰途に着くと、今度は7戦隊(最上もがみ三隅みくま熊野くまの鈴谷すずや)のご難となった。
この海域特有の濃霧の中で潜水艦の襲撃を受けて回避中に、最上と三隅が衝突、三隅は速力が落ちたところをエンタープライズの艦載機に追い討ちをかけられて沈没し、最上は大破された。
更にこの濃霧で駆逐艦(艦名は失念)同士も衝突して2隻とも傷付いた。

重巡『最上』 第7戦隊旗艦
重巡『最上』 第7戦隊旗艦

こちら24駆逐隊は、警戒部隊を分離して2戦隊(扶桑ふそう山城やましろ)と合流した途端に台風のど真ん中に巻き込まれてしまった。
「荒天候ノタメ速力ヲ12ノットニ減速スル」の旗旒信号を掲揚し、何食わぬ顔で航行する戦艦群を羨ましそうに見送りながら、こちらは速力2ノットでアップアップ。
風速40メートルの強風と10メートル以上の荒波に揉まれて、上甲板のリノリュームは剥げ、内火艇やカッターを吊るすダビットは折れ曲がってしまった。
古参兵の話によると昭和9年に艦隊が大時化に会い、駆逐艦が真っ二つ折れたことが有ったが今回はその時よりはるかに酷いという。

戦艦『山城』 第2戦隊旗艦
戦艦『山城』 第2戦隊旗艦

甲板上に居る者は艦橋の当直士官と信号員と見張員,それに電信室の電信員と操舵室の操舵員だけであとは皆ハッチを締め切って各居住区に閉じこもってしまった。
翌日、暴風が治まって艦橋に上がって見ると廻りには2戦隊の影は何処にも見当たらない。
1番砲塔付近の剥がれたリノリュウムの間にピチピチ跳ねている魚が見えていた。
台風のお土産は甲板に舞い上がって来た50匹程の飛魚だけだった。
2戦隊からも連絡の無いまま(無線連絡はあったと思う)這う這うの態で横須賀に帰投したのは海戦から10日以上も過ぎた6月17日だった。
入港してダビットの修理やリノリュウムの補修張替え等の突貫工事をしている間に、比較的被害の軽かった山風は対潜掃討の命令を受けて出撃して行った。
山風は、大湊を経由して佐伯湾で本隊と合流する事になっていたが、出撃の数時間後から電波が途絶えたまま遂に姿を見せることはなかった。
この神隠しに遭ったような奇怪な出来ごとは当時の艦隊でも話題になったものである。
戦後、米潜水艦ノーチラス号に撃沈された事が判ったが、艦長浜中大佐(特進)以下乗組員227名は全員戦死。私達4人組の同期の桜もこの時一輪(小沢範孝君17才)が蕾のまま散って行ったのである。

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