便乗
ランチは桟橋を離れると10分位で朝日丸に横付けした。この船は10,000トン程もある病院船で、真っ白い船体に鮮やかな赤十字を配した美しい船だった。
マストには日章旗が翻っており、乗組員は軍医と看護兵を除いては全部軍属資格の従軍看護婦と民間の船員で、船内は殆ど病室になっていた。
病院船 『朝日丸』
4人はその大部屋の一室に案内され、出港すると間もなく看護婦さんが4人分の白衣を持って来た。
元来、病院船で戦闘要員を輸送する事は国際法で禁じられていたので、船内では戦傷兵の扱いにしたのであろうが私達はこの白衣は一度も着たことはなく、何時も別に貸与された事業服と防暑服で過ごした。
水兵とは名ばかりで、練習生の頃、穏やかな東京湾で2〜3回艦上訓練を受けただけである。
豊後水道を出ると間もなく船はウネリに乗って大きくローリングし始めた。
4人共船酔いでゲロゲロ始めたが、それも2〜3日で治まり、その後は平穏な航海が続いた。
軍紀や軍律に縛られることも訓練も課業も無く、全く自由気ままな客人扱いで、海を眺めながらの日光浴が毎日の日課だった。
どちらを向いて航海しているのかも全然見当もつかなかったが日毎に気温が上昇することから任地が南方である事には薄々気付いていた。
出港して1週間ほど過ぎた頃からあちこちに鮮やかな緑の島影が見え始めると、間もなくダバオ(ミンダナオ島南東の良港)に入港した。
此処では入港すると船員と共に保 健上陸が許可され、久し振りに踏みしめる大地だったが心なしか未だ体が揺れているような気がした。
廻りは一面の椰子林で、中国人に似たちょっと黒めの現地人や、椰子の葉っぱで葺 いた高床の住居等みんな珍しい物ばかりである。
4〜5才位の幼児たちが皆の廻りを取り囲んで、手を差し出しながら「タバコ・タバコ」とせがんで来る。
親兄弟のために強請 っているのかと思ったので「ほ まれ」を一箱差し出すと、直に封を切って皆で吸いながら地べたに広げて仲良く分けている。
「子供のくせにタバコなんか吸っちゃあ駄目だよ」と言ってみたがまったく言葉が通じない。
遠くの方で砲声らしい音が聞こえるので案内してくれた陸軍さんに聞いてみると、50キロほど北では未だ戦闘が続いているとの事だった。
獣道のような椰子林の細道を抜けて船に帰る途中、桟橋の衛兵に呼び止められた。
戦地に来て気付かないうちに何か規律違反でも有ったのかと思いながら立ち止まって敬礼をすると、「貴様たちは24駆逐隊の便乗兵か?」と言う。
これは大変なことになったと思い、衛兵の前に整列して、「ハイ:そうで有ります」、4人が口をそろえて答えると、
衛兵は笑みを浮かべながら、「此処は戦地だ、そんなにコチコチにならなくてもいい」と前置きして、「お前たちの衣嚢はもう積み込んである、今日からこの艦 に転乗することになったのでそのまま急いで乗艦しろ」と言って桟橋の反対側に横付けしている艦を指差した。
4人は一先ず胸をなでおろしながら何の事か判らないままにその艦のラ ッタルを駆け上がった。
私達が乗艦すると待っていたかのように、『出港用意』の喇叭 が鳴り響いて艦は舫 い綱を放した。
乗艦して既に衣嚢が運び込まれている居住区に行って見ると、朝日丸とは全く様相が違う。
同年兵位と思われる三等水兵にそっと聞いてみると、この艦は特務艦伊 良 湖 (糧秣補給艦)で、第一線の艦艇に糧秣の輸送任務中である事が判った。
伊良湖は昨年進水したばかりの糧秣補給艦で就役して間もないようだった。
糧秣補給艦 『伊良湖』
練習生の頃、艦名識別で教わった糧秣補給艦だったが艦名だけしか覚えていなかった。
上甲板に上がってみると、ねずみ色に塗装された11,000トンの巨艦で、後檣 に翻 る軍艦旗を見ると、朝日丸とは一味違う威容を感じた。
間もなく信号の特技章を付けた先輩の二等水兵が来て衣嚢が置かれてあった居住区で便常中の心得に付いて説明してくれた。
先ず真新しい防暑服とズック靴を用意してくれて、艦内を簡単に案内してくれた後、「お前たちが一番楽しみにしている所を教えよう」と言って酒保に案内してくれた。
先輩は木札に書いて壁に吊るしてある価格表を指差して、この値段だから何でも好きな物を買うがいい、と言って、夫々に新しい酒保帳を1冊ずつ渡して記入方法と清算方法を教えてくれた。
記憶している価格の一例をあげると、
ほまれ20本入り1ケース 78銭。
清酒1升 50銭。
ひかり10本入り1ケース(20箱) 60銭。
ビール一本 15銭。
赤玉ポートワイン1本 20銭。
ラムネ1本 1銭。
森永キャラメル1箱 3銭。
サイダー1本 3銭。
この外、石鹸・タオル等の日用品も全てが免税品のため市価の5分ノ1から10分ノ1位の価格で買う事ができるので、20銭もあれば満腹になると言うまさに食い気一方の新兵さんにはこの上も無い天国であった。
この艦には私達の外に便乗者も大勢いるようだったが、出港して一段落すると、電信と信号の便乗者には当直勤務が割り当てられることになり、夫々4直(2時間勤務して6時間休む)の勤務に就くことになった。
ダバオを出航して2日目の晩には赤道通過を祝う赤 道祭りが行われたが流石 に糧秣補給艦だけあって酒や肴 はお手のもので、
灯火管制で星の薄明かりを頼りの上甲板は、無礼講の飲めや唄えで大騒ぎだった。
この夜、外舷の手すりに持たれてジッと海を眺めていた田舎育ちの新兵さんに、「赤道ってどうして判るのですか」と聞かれた通りがかりの古参兵が、「うん、
もう間もなく海上に赤い線が見えてくるから良く見ていろ、そこが赤道だ」と、冗談に言ったことを真に受けて一晩中海を眺めていたと言う漫談のような事実があったことも聞いた。
大イベントがおわった後も波静かな平穏な航海が続いた。
2月24日の朝方ちょうど筆者が当直の時、右前方に艦影が見えて来た。
「駆逐艦らしき艦影右20度」
得意げに当直将校に報告すると、右舷1番の先任見張り下士官が、さっと20センチ望遠鏡を同方向に向けて追報告した。
「艦影は江風、こちらに向かってきます」
スラバヤ沖海戦を終えて遊弋 中の江風は見る見るうちに近付いて来た。
「信号兵 江風に信号…」
当直将校の命令に、急いで私は発信用紙を用意した。
『× トヨト×24駆ノ便乗兵四名アリ、ケンダリー入港後貴艦ニ移乗方手配アリタシ』
訓練通りの手順で江風の艦名符字 「BD」の旗旒を掲げると江風はすかさず応信旗を半揚した。
はやる心を押さえながら丁寧に手旗信号を送り終わると江風は直ちに了解の応信旗を全揚してくれた。
応信する江風の動作の機敏さは練習生時代の訓練とは雲泥の差が感じられる。
「江風信号を了解しました」自分の信号が始めて実戦に通じた喜びと、愈々今日から24駆逐隊の一員になれる嬉しさで報告の声もうわずっていた。
この日の夕刻ケンダリー(セレベス島南東岸)に入港すると、糧秣補給のため伊良湖に横付けした江風に4人共乗り移った。
練習生終業以来すべての行動日程については記憶に乏しいが、この日が3月4日であった事だけは何時も心に残っている。
上橋君はこれで配属された江風乗組員としての任務に就く事になったわけだが、私たちも江風航海長の計らいで各自が夫々各艦に乗艦するまでは江風の乗組員として当直に就くことになった。
江風は翌5日、6戦隊(足柄 ・羽黒 ・妙高 ・那智 )を護衛して出港した。
6日スターリング港に入港すると、既に山風は港内に投錨しており、涼風も湾の奥地に錨泊して応急修理をしていると言うことだった。
小沢君と山本君は夫々の艦に乗艦して行ったが、この時涼風はスラバヤ沖海戦で敵潜水艦の雷撃を受けて大破していたことを始めて知った。
保健上陸…艦内では運動不足になるため、時間の許される限り健康保持のため短時間の上陸が許可される。
ラッタル…乗艦するために舷門から吊り下げられた簡易な階段。
ほまれ…陸海軍人専用のタバコで内地勤務の場合は20本入りを七銭で売られていた。
赤道祭り…艦船が始めて赤道を通過する時行うユーモラスな祭事。
×…略語の記号で×トヨト×は当直将校より当直将校へ、の意味。
艦名符字 …海軍部内で各艦艇に付けられたアルファベット2文字の機密記号。
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ランチは桟橋を離れると10分位で朝日丸に横付けした。この船は10,000トン程もある病院船で、真っ白い船体に鮮やかな赤十字を配した美しい船だった。
マストには日章旗が翻っており、乗組員は軍医と看護兵を除いては全部軍属資格の従軍看護婦と民間の船員で、船内は殆ど病室になっていた。
病院船 『朝日丸』
4人はその大部屋の一室に案内され、出港すると間もなく看護婦さんが4人分の白衣を持って来た。
元来、病院船で戦闘要員を輸送する事は国際法で禁じられていたので、船内では戦傷兵の扱いにしたのであろうが私達はこの白衣は一度も着たことはなく、何時も別に貸与された事業服と防暑服で過ごした。
水兵とは名ばかりで、練習生の頃、穏やかな東京湾で2〜3回艦上訓練を受けただけである。
豊後水道を出ると間もなく船はウネリに乗って大きくローリングし始めた。
4人共船酔いでゲロゲロ始めたが、それも2〜3日で治まり、その後は平穏な航海が続いた。
軍紀や軍律に縛られることも訓練も課業も無く、全く自由気ままな客人扱いで、海を眺めながらの日光浴が毎日の日課だった。
どちらを向いて航海しているのかも全然見当もつかなかったが日毎に気温が上昇することから任地が南方である事には薄々気付いていた。
出港して1週間ほど過ぎた頃からあちこちに鮮やかな緑の島影が見え始めると、間もなくダバオ(ミンダナオ島南東の良港)に入港した。
此処では入港すると船員と共に
廻りは一面の椰子林で、中国人に似たちょっと黒めの現地人や、椰子の葉っぱで
4〜5才位の幼児たちが皆の廻りを取り囲んで、手を差し出しながら「タバコ・タバコ」とせがんで来る。
親兄弟のために
「子供のくせにタバコなんか吸っちゃあ駄目だよ」と言ってみたがまったく言葉が通じない。
遠くの方で砲声らしい音が聞こえるので案内してくれた陸軍さんに聞いてみると、50キロほど北では未だ戦闘が続いているとの事だった。
獣道のような椰子林の細道を抜けて船に帰る途中、桟橋の衛兵に呼び止められた。
戦地に来て気付かないうちに何か規律違反でも有ったのかと思いながら立ち止まって敬礼をすると、「貴様たちは24駆逐隊の便乗兵か?」と言う。
これは大変なことになったと思い、衛兵の前に整列して、「ハイ:そうで有ります」、4人が口をそろえて答えると、
衛兵は笑みを浮かべながら、「此処は戦地だ、そんなにコチコチにならなくてもいい」と前置きして、「お前たちの衣嚢はもう積み込んである、今日からこの
4人は一先ず胸をなでおろしながら何の事か判らないままにその艦の
私達が乗艦すると待っていたかのように、『出港用意』の
乗艦して既に衣嚢が運び込まれている居住区に行って見ると、朝日丸とは全く様相が違う。
同年兵位と思われる三等水兵にそっと聞いてみると、この艦は特務艦
伊良湖は昨年進水したばかりの糧秣補給艦で就役して間もないようだった。
糧秣補給艦 『伊良湖』
練習生の頃、艦名識別で教わった糧秣補給艦だったが艦名だけしか覚えていなかった。
上甲板に上がってみると、ねずみ色に塗装された11,000トンの巨艦で、
間もなく信号の特技章を付けた先輩の二等水兵が来て衣嚢が置かれてあった居住区で便常中の心得に付いて説明してくれた。
先ず真新しい防暑服とズック靴を用意してくれて、艦内を簡単に案内してくれた後、「お前たちが一番楽しみにしている所を教えよう」と言って酒保に案内してくれた。
先輩は木札に書いて壁に吊るしてある価格表を指差して、この値段だから何でも好きな物を買うがいい、と言って、夫々に新しい酒保帳を1冊ずつ渡して記入方法と清算方法を教えてくれた。
記憶している価格の一例をあげると、
ほまれ20本入り1ケース 78銭。
清酒1升 50銭。
ひかり10本入り1ケース(20箱) 60銭。
ビール一本 15銭。
赤玉ポートワイン1本 20銭。
ラムネ1本 1銭。
森永キャラメル1箱 3銭。
サイダー1本 3銭。
この外、石鹸・タオル等の日用品も全てが免税品のため市価の5分ノ1から10分ノ1位の価格で買う事ができるので、20銭もあれば満腹になると言うまさに食い気一方の新兵さんにはこの上も無い天国であった。
この艦には私達の外に便乗者も大勢いるようだったが、出港して一段落すると、電信と信号の便乗者には当直勤務が割り当てられることになり、夫々4直(2時間勤務して6時間休む)の勤務に就くことになった。
ダバオを出航して2日目の晩には赤道通過を祝う
灯火管制で星の薄明かりを頼りの上甲板は、無礼講の飲めや唄えで大騒ぎだった。
この夜、外舷の手すりに持たれてジッと海を眺めていた田舎育ちの新兵さんに、「赤道ってどうして判るのですか」と聞かれた通りがかりの古参兵が、「うん、
もう間もなく海上に赤い線が見えてくるから良く見ていろ、そこが赤道だ」と、冗談に言ったことを真に受けて一晩中海を眺めていたと言う漫談のような事実があったことも聞いた。
大イベントがおわった後も波静かな平穏な航海が続いた。
2月24日の朝方ちょうど筆者が当直の時、右前方に艦影が見えて来た。
「駆逐艦らしき艦影右20度」
得意げに当直将校に報告すると、右舷1番の先任見張り下士官が、さっと20センチ望遠鏡を同方向に向けて追報告した。
「艦影は江風、こちらに向かってきます」
スラバヤ沖海戦を終えて
「信号兵 江風に信号…」
当直将校の命令に、急いで私は発信用紙を用意した。
『
訓練通りの手順で江風の
はやる心を押さえながら丁寧に手旗信号を送り終わると江風は直ちに了解の応信旗を全揚してくれた。
応信する江風の動作の機敏さは練習生時代の訓練とは雲泥の差が感じられる。
「江風信号を了解しました」自分の信号が始めて実戦に通じた喜びと、愈々今日から24駆逐隊の一員になれる嬉しさで報告の声もうわずっていた。
この日の夕刻ケンダリー(セレベス島南東岸)に入港すると、糧秣補給のため伊良湖に横付けした江風に4人共乗り移った。
練習生終業以来すべての行動日程については記憶に乏しいが、この日が3月4日であった事だけは何時も心に残っている。
上橋君はこれで配属された江風乗組員としての任務に就く事になったわけだが、私たちも江風航海長の計らいで各自が夫々各艦に乗艦するまでは江風の乗組員として当直に就くことになった。
江風は翌5日、6戦隊(
6日スターリング港に入港すると、既に山風は港内に投錨しており、涼風も湾の奥地に錨泊して応急修理をしていると言うことだった。
小沢君と山本君は夫々の艦に乗艦して行ったが、この時涼風はスラバヤ沖海戦で敵潜水艦の雷撃を受けて大破していたことを始めて知った。
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